ディベートのその先


長岡ゼミでは9月の7日と8日に夏合宿を行なった。去年の夏合宿では金沢に行ってフィールドワークをしていたが、このご時世の為春合宿と同様オンラインで行われた。


この合宿で私が一番考えさせられたのはハーバード白熱教室での議論だった。私たちは春学期の間読書会を「13歳からのアート思考」という本で行なってきた。

ちなみに長岡ゼミの読書会は一人がゆっくり音読して、それを聞きながらみんなで①内容と表現をじっくり読む②読みながら頭半分を動かし、インスピレーションを得る③その考えたこと、感じたことをメモする④どこからインスピレーションを受けたかを記すという4つのルールを守りながら読み、区切りがいいところで議論するという感じで進んで行く。

それを今回初めて「ハーバード白熱教室」で行なったのである。夏合宿で読んだのは路面電車の話とある大学の話だ。

路面電車の話では自分が路面電車の運転手で、時速100kmで進んでいたら前に5人の労働者がいることに気づき、電車を止めようとするがブレーキは効かない。ハンドルを切れば脇に逸れる線路に行けるが、その先には1人の労働者がいる。まっすぐに進むのとハンドルを切るのとどちらが正しいのかという話。また、自分がその状況を橋の上から見ている傍観者だった時、隣に橋から身を乗り出している太っている男がいて、この男を突き落とせば電車の前に落ちて彼は死ぬが5人は助けることができる。その時に突き落とすかという話。

そして大学の話はある白人の少女がテキサス大学に受験し不合格だった。テキサス大学は合否を決定する際に人種や民族的バックグラウンドを考慮に入れるアファーマティブ・アクションを採用していたため、白人である彼女よりも点数が低い出願者が合格していた。そこで少女は白人であるという理由だけで不合格になるのは公平ではないと大学を告訴した。この時少女には権利が侵害されたとして告訴する権利があるかという話だった。

路面電車の話も大学の話もどちらも議論は白熱した。様々な意見も出たし、話している中で意見を変える人だっていた。

その中で「こういった議論をする上で一番大切なのはその人の意見と人格は分けて話さなければならないということだ。日本では多くの人がそこを一緒にして話してしまうため上手く議論ができていない。」と長岡先生から言われた。

それを聞いて私は腑に落ちた。私の通っていた高校では生徒同士で政治の話とか日本の教育制度の話、「幸せとは」という議題で授業でもないのによく話していた。しかし、アメリカに留学に行った同級生は帰ってくると、向こうでは政治の話とか普通にしていたけど他の日本から来た子は学校ではそういう話をしないからって戸惑っていたと言っていた。そして私が高校でそういった話をしていたと言うと大体の大学の同級生は「変わった学校だね」と返してくる。このアメリカの学校と私の通っていた高校、そして他の多くの日本の高校の3つの違いは何だろうかとずっと疑問に思っていた、その答えにやっとたどり着いた気がしたのだ。

そして、意見以外にも様々なことを人格と切り離せていないのではないかと考えた時、属性や特性は人格と切り離して考えられていないひとつなのではないかと考えた。
私はダイバーシティについての活動をやってきたが、自分のセクシャルをカミングアウトしたら罵倒されたとか無視されたという話はちょくちょく聞くことがある。それまでは仲良くしていたにもかかわらずだ。私はその人が誰を好きでも誰と付き合っていてもどうでもいいと考えるのでその現象を不思議に思っていたが、もしかしたら人格とセクシャルを一緒にしているのが原因なのではないかと感じた。人格と切り離して考えられないと、その人の1つの部分が異なったらもう自分とは相容れない人だという風に認定してしまっているのかもしれない。

もしそうだとしたらディベートの練習をすることは誰かの人格を些細な理由で傷つけないための練習になるかもしれないし、人格と切り離すという前提はダイバーシティに寛容な人になるためには必要なものではないかと感じた。

日本でも学校や友達同士でディベートが活発に行われるようになった時、多様性のある社会の実現はすぐそこかもしれない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?