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ラジオネタ Vol.1 「目の見えない人は世界をどう見ているのか」

今年に入って毎週noteでなにか書くようにしています。テーマはバラバラでその時に感じたことをその時の言葉で書き留めているだけなのですが、自分の言葉で書くことで頭の整理になるし、後から振り替えれるアーカイブになるし、「note見ました!」って言ってくれる人もいて、結構嬉しいので続けてみます。

これに味をしめてPodcastも始めようかな〜と思いましたが、、、我々には既にYoutubeラジオチャンネルがあるのです!笑 

(え!もう一年前なの???👀)
というわけで、松田さんとのこちらのチャンネルを使って音声でもアウトプットをしていきたいと思います。
個人的には、

  1. 定期的に発信

  2. アドリブが効かないので、本とかを紹介するスタイル

  3. note、研究テーマに連動して一石三鳥

できると良いなと思っています。(欲張りw)


今回取り上げる本

今回取り上げる本は「目の見えない人は世界をどう見ているのか」です。

この本を知ったのは、この本をモデルにしたヨシタケシンスケさんの絵本がキッカケです。

「多様性」とか「インクルージョン」とか考える上で参考になるかなー、って感じで買いました。が、いい意味で裏切られましたw 

紹介したいポイントと、個人的コメント

本の内容を網羅的に要約して紹介するのは大変だし、そんな技術もないので、ここでは本を読んで紹介したいポイントをピックアップして、そのポイントに関してコメントを付けていくというスタイルにしようと思います。
そのため、本の主旨ではない部分がピックアップされていたり、私のコメントが斜め上すぎる時があると思いますが、ご容赦ください。

序章(見えない世界を見る方法)

自分と異なる体を持った存在のことを、実感として感じてみたい

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか

生物学者を目指していた著者は、自分と全く異なる生き物がどんな風に世界を理解しているかを単なる情報としてではなく、実感したかったそうです。私も同じような感覚を持っていて、いくら言葉でその人の話を聞いても「分かるけど、分からない」と言う感覚があります。なので、「その人のことをもっと知りたい」と考え、私の場合はそれをワークショップという形式でできるだけ参加者の言葉で話してもらったり、参加者がテーマに夢中になれる状況を作るようにしていました。(今後は、フィールドワーク、エスノグラフィと言う形で、さらに突っ込んでいきたいと思っています。)

ちなみに、本の中で「ゾウの時間ネズミの時間」と言う本が紹介されているのですが、これも積dleでした。。。😅

美学とは、芸術や感性的な認識について哲学的に探求する学問です。もっと平たくいえば、言葉にしにくいものを言葉で解明していこう、という学問です。フランス語に、「ジュヌセクワ(je ne sais quoi)」という言い方があります。翻訳すると「いわく言いがたいもの」でしょうか。
(中略)
ま、「カユいところに手を届かせようとする学問」という感じです。
(中略)
カユいところに手が届いた、という納得感は非常に身体的なものです。腑に落ちた、すっきりした、という身体的な気持ちよさ。ただひたすら論理によって攻めていくだけでは歯が立たないようなことでも、美学ならばしなやかに解きほぐすことができる場合があります

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか

「カユいところに手が届いた、という納得感は身体的である」というのはめちゃくちゃ納得感があって、3月に久しぶりに実施したワークショップで改めて感じたことでした。「ひたすら言葉で論理的に積み上げられた内容」よりも「ちょっとした体験」で一気に納得できることがある。そんな感じです。

そこで、「個々の体を明らかにする」とまではいかなくても(それはおそらく小説の仕事でしょう)、「特徴のある体を明らかにする」ことで、「身体一般」をもう少し細分化・具体化できないだろうか、と考えました

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか

ここで身体的に理解するときの「からだ」とは一体誰のからだなのでしょうか?著者は「身体一般」という抽象的な捉え方が示す「普遍性」に疑問を呈しています。「身体一般」なんて実在しない、と。
この部分も最近私が感じている「行き過ぎた抽象化・概念化による単純かと扱いやすさ」につながると思っています。そうではなくて「一般化しない状態で比較することで『違い』が見えてくる」はずです。その違いこそが新しい発見でしょう。
今回著者は、自分と違う人として選んだのが「見えない人」です。(この部分がこの本の最もすごいところだと思います。が、ここでは深掘りしません。興味のある方は是非本を読んでみてください!)

見える人が目をつぶることと、そもそも見えないことはどう違うのか。見える人が目をつぶるのは、単なる視覚情報の遮断です。つまり引き算。そこで感じられるのは欠如です。しかし私がとらえたいのは、「見えている状態を基準として、そこから視覚情報を引いた状態」ではありません。視覚抜きで成立している体そのものに変身したいのです。そのような条件が生み出す体の特徴、見えてくる世界のあり方、その意味を実感したいのです

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか

ここもめちゃくちゃ重要なポイントだと思います。「見えない人=視覚情報が欠如している人」と捉えてしまうことに一石を投じています。

この「何かが欠如している」という考え方は、今の世の中にめちゃくちゃまん延していると思います。街なかでも(Webサイトの中でも)「あなたに足りないものはこれですよ、さぁ買いましょう」と常に言われている気分ですし、自分が提供する側として考えたときにも「これが必要ですよね?私はそれを持っていてあなたに提供できます」と言いがちです。もちろん私も。。そのため「満たされていない状態=何かが欠如している状態」から「満たされた状態」にしてあげようと考えてしまいがちです。

しかしここでは「見えない状況」をニュートラルに捉えたいと言っています。この捉え方、物事を見る態度と言ってもいいと思いますが、本当に難しいけど大事だと思っています。私たちは瞬時に「価値判断」をして、意思決定をしています。むしろその価値判断と意思決定のスピードが速ければ速いほど良い、とすら考えてしまいがちです。

ちょっと立ち止まって考えてみてください。その価値判断の基準ってどこから来てますか?

ファシリテーションをする立場では、「価値判断を保留する」というのが重要だと言われます。「価値判断をするな」ではなく「価値判断を保留する」です。
「その意見は良い・悪い」と思うこと(=価値判断)することは良いが、それを言葉にする前に「なぜ良い・悪い」と思ったのか?と価値判断していることに自覚的になり、価値判断を言葉にすることを保留してみることに場をニュートラルに保つことができます。

変身するとは、そうした視覚抜きのバランスで世界を感じてみるということです。
(中略)
異なるバランスで感じると、世界は全く違って見えてきます。つまり、同じ世界でも見え方、すなわち「意味」が違ってくるのです。

伊藤 亜紗. 目の見えない人は世界をどう見ているのか

このように、世界の捉え方を「自分の価値観に寄せる」のではなく、ニュートラルにすることで新しい発見があり、著者はそれを「意味」と言っています。

ここで思い出したのは哲学で言うところの世界の捉え方の違いです。認識論のひとつ「実証主義」と「構成主義」の違いだと思いました。

実証主義とは、知識は感覚的に経験できるものや論理的に証明できるものから得られるとする理論です。
一方、構成主義とは、人間は知性や経験、世界との相互作用を通じて知識を構築するとする理論です。

https://toumaswitch.com/ljp2n9it03/

これについてはもっと調べないとダメですね。。。似ているキーワードが多いので混乱してますw
(「意味」についても、「意味のイノベーション」とかに触れたいけど、それもまた今度😅)

まとめ

脱線に脱線を繰り返し、ここまで書いてきましたが実はまだ序章です笑
しかしこの後は、実際に「見えない人」がどのように世界を捉えているかという参与観察的な部分なので、序章がめちゃくちゃ大事だと思います。

ラジオの収録までには「ゾウの時間ネズミの時間」も読んでおこうと思います。

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