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母とふたりでわんわん泣いた日

「脳卒中」
たしか日本人の三大死因のうちの一つだと、昔なにかの授業で習った言葉だ。
自分には関係のない、遥か遠くにあった言葉。

正しくは「脳血管障害」というらしい。
患者数は決して少なくない。とくに70代男性のところは、患者数の棒グラフがぐんと高く伸びている。そんなことも、父が脳出血で倒れたあとに知った。

今まで遥か遠くにある病気だったから、なにも知識がない。
父が救急搬送されたあとも、この先どうなるのかまるで想像がつかない。先が見えず真っ暗だった。

そんなときはとにかく調べる。病気を知る。わたしの場合はそれが自分を落ちつかせる唯一の方法だった。
すると、暗闇の中にうっすらと道が見えてくる。

どうやら脳血管障害というのはかなりやっかいだ。
命までは取られなくても、後遺症が残ることが多い。
体の麻痺(片側の手足が動かないなど)のような目に見える障害だけではなく、頭の中だけで起こり得る障害の種類が多すぎる。
身体が不自由になるだけではなく、父らしさまで失われる?
そう思うと不安でとてもかなしくなった。

脳出血は症状が落ち着くとすぐにリハビリが始まる。
体力や身体機能が低下しないように、そして脳の機能回復のためにも早期に集中的にリハビリをするそうだ。本人は悲しみにくれる時間もないのか、と思った。

父も入院中からリハビリが始まっていた。

その頃、一度だけ母が泣きながら電話をしてきたことがある。
父が救急搬送されてから一週間が過ぎた頃だっただろうか。
コロナで面会はできず、病棟の入り口(ナースステーション)まで母が着替えを持っていく日々だった。

母はどうしても父の姿をひと目見たかったそうだ。
遠くからでもいいから、父を励ます声をかけたかった。
母は考えた。
リハビリ病棟から戻ってくる時間帯に合わせて行けば、一瞬だけでも会えるかも!と。

その作戦がうまくいき、リハビリから戻ってきた父と会うことができた。
さすが母だ。
でも、ようやく会えた父の姿はあまりにもショックなものだった。
顔はすっかり変わってしまい、話す声もちゃんと聞き取れない。
「今までのお父さんじゃない…。」

病院の駐車場までなんとか戻り、車の中から電話してきた母の話を聞きながら、二人でわんわん泣いた。

だかしかし。
こんなときこそわたしの出番だ!
40年間、くろぺん家の楽観的な長女として生きてきた。
この状況を意地でもプラスの方向に変えてやる。

あ、今さらですが、「くろぺん」は父のあだ名である。
LINEの登録名も「くろぺん」だったので、このnoteではそのまま使わせていただくことにした。

くろぺん家の楽観主義代表から見ても、暗闇の中にうっすらと見える道はどれも険しそうだった。
どうやら、わたしたちも暗闇対応メガネをかける必要がありそうだ。
受け入れるしかないこの状況を、どう理解し、対応していくか。
見方を変える。少しでも明るい方に。

あの日病院で見た父の姿は、一番つらいときのはずだった。
ここからリハビリが毎日、数ヶ月間続き、ゆっくりと回復していく。
生きて、そのスタートラインに立ってくれていることだけでも、家族としてはとてもありがたいことだった。
すべては命あってこそ、だ。

「これからリハビリをすれば、今の状態よりは必ずよくなる。ぜったい大丈夫、お父さんを信じて待とう!」
母を励ましながら、必死で自分にも言い聞かせた。

あの日信じたとおり、父は自分の足で歩いて帰ってきてくれた。杖をついていたし、ゆっくりだったけれど、階段の上り下りもできた。想像以上だ。

実家の玄関は、外階段を12段ほど上がったところにある。だから普通に考えると階段を上れないと家に帰れない。家に帰るために、必死でリハビリをがんばったんだと思う。

貧血でとんでもない数値を叩き出すまで病院に行かなかった父。(そこは行ってくれ!)
そんな我慢強い、ど根性!くろぺんは、身体が不自由になってからも一切弱音を吐かなかった。ほんとうに尊敬する。
今までとはすっかり変わってしまっても、「父らしさ」はいろんなところに残っていて、わたしはそれがとてもうれしかった。

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