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父が生きるということは

「お父さんがもし、人の手を借りないと生きられないようになったら、施設に入れてな。
そして、会いにこなくていいから。
見られたくない。」

祖母が認知症で入所していた施設の談話室で、父がわたしにそう言った。
今から20年近く前の話だ。

なんとも父らしいセリフである。
情けない姿は見られたくないんだろう。
下の世話をされる姿なんてもってのほか。
そんなことになるくらいなら独りの方がマシだ。
そしてさっさと人生を終えたい、ということだろうと理解した。

わたしは「わかった〜」とだけ答えた。
その時は父が要介護者になる日が来るなんて想像もつかなかったけど、あの日交わした会話は、のちにわたしの決断を支えることになった。

2020年のある日、父が突然右半身麻痺の要介護者になり、母による介護がはじまった。

最初の頃、父は家に帰ることができた喜びと、不自由な生活へのストレスで、少し不安定に見えた。
そりゃそうだよね。
利き手が使えないだけでもどれだけ大変か。
大好きな自分の家でも、父の生活は0からのスタートだ。

一方母は、意外にも前向きに見えた。
父のためにできることはなんでもしたし、リハビリを頑張ればできることが増えていくと信じて、献身的にサポートしていた。

わたしはそれを、すごいなぁ〜と思った。
母がすごいのか、長年連れ添った夫婦とはそういうものなのか、わからない。
自分は夫に同じことができるだろうか?
全く自信がない。

父も母も戸惑いだらけの生活だったに違いないけれど、なんとか、それなりに、ふたりのペースで順調に暮らしているように見えた。


母に異変が起きたのは、介護生活も1年半を過ぎた頃だった。
最初は、謎の体重激減やめまいなどの体調不良から始まった。

原因は、うつだった。
いま振り返ってみると、ちゃんと予兆はあった。
わたしが気づいてあげられなかっただけだ。

母はパタンと、父のお世話ができなくなってしまった。

大切な人を介護することは、心をすり減らしていく場合がある。
頑張った分だけ回復するとも限らない。
いつまで続くのかもわからない。
夫婦一緒にいられても、きっと、孤独だ。

父が生きるということは、母の残りの人生の時間を使って生きることになるのだ。
そこに綺麗事なんかない。
母の自由な時間を、父に捧げている。それが介護だった。
そのことが悲しかったし、そんなふうに考える自分が冷たくて父に申し訳なくなった。


母まで病気になってしまって、これまでと優先順位が変わった。
まずは母が回復してくれることを一番に考えなければならない。

ケアマネの暖炉さん(愛称)がいろいろ提案してくださって救われた。
暗闇に放り込りこまれた私たちの足元を照らしてくれた。
暖炉さんはわたしよりも先に、母の限界に気づいていた。

父はデイサービスのお泊まりを使えるだけ利用させてもらい、その後「レスパイト入院」で病院に3週間近くお世話になることになった。
その間に、父が入所できる施設を探した。

母がなにもできなくなって初めて、レスパイト入院の存在を知った。
SOSを出せばなんとかしてもらえる制度があることに驚いた。
正直、もっと早く知りたかった。

つらい時は、「助けてください」と声をあげることが大事だ。
もし今ひとりで抱えて苦しんでいる人がいたら、声をあげてほしい。
救ってもらえる制度があるかもしれない。


父と母がこんなことになってしまうなんて。
ゆっくり悲しんでいる時間もないままに、父がお世話になる施設を妹と2人で探した。

父は癌の再発もあったため、緩和ケア施設への入所が決まった。
母が不在のまま、施設を見学し、入所手続きする。

初めて聞く単語がたくさん出てくる説明を、何時間も聞きながら思った。
高齢になってからこの手続き無理じゃない?
なんてエネルギーを使うんだ。
頭はフル回転だし心はつらい。
少なくとも今の母には全然無理だと思った。

わたしの場合は妹も一緒にいてくれたからなんとか頑張れた。
それでも父を一人で施設に入れること、かわいそうで申し訳ない気持ちがずっと胸に引っかかった。

選んだ施設はとても綺麗で、広くて、ご飯もおいしい。
でも、家での介護を諦めることは見放すことにならないか?
本当にそれでいいのだろうか。

そんな時、いつもあの日の父の言葉を思い出した。

「お父さんがもし、人の手を借りないと生きられないようになったら、施設に入れてな。
そして、会いにこなくていいから。
見られたくない。」

まだ元気な頃の、父らしい意思表示はこうだった。
だからこれでいい。間違ってないんだ。

妹と何度も確認し合いながら、自分たちを励ました。

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