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【連載小説】「逆再生」 第8話(終)

9月3日 18時44分 
坂巻佑子

 あの時と同じなのは、生温い風と鮮やかすぎる茜空。
 あの時と違うのは、頭上を飛び回る尋常じゃない量のカラス。
 私が逆再生を始めてから、あいつらが段々増えてきているのは気付いている。あいつらが何を言いたいのかも分かっている。
 呼びかけているのだ。この特別な時間がもうすぐ終わるということを。

 私は人気の無い夕闇の路地に一人立ち尽くしていた。直美と別れた後、家に帰るまでの道の途中だ。
 あの神社で直美が言っていたことが正しいのなら、私の時間はもう10分くらい前、直美と橋を渡る時に終わるはずだ。
 おそらく、次が最後の時間移動になる。そう肌で感じていた。
 私は鞄の中を覗き、内ポケットに入れてある一枚の手紙を確認する。きちんと封が閉じられた、淡い水彩調の魚の絵が書いてある封筒だ。宛名の所に繊細で丁寧な文字で「佑ちゃんへ」と書いてある。
 私がこの手紙を受け取ったのは、二日後。私にとっては二日前になる、9月5日の夕方だ。
 自分が落ちた瓦礫の床を見下ろしながら暗い気持ちになっていた時、向こうから直美がやってきた。
―――今から二日後の夕方、日暮里駅から谷中墓地に渡る橋の上でこの手紙を読んで。それまで決して開けちゃ駄目だよ。
 彼女はそう言って私にこの手紙を渡した。時間を戻ることしかできなくなった私に二日後の夕方 を迎えることはできない、とその時は思った。
 しかし神社で直美の話を聞いてから、「二日後」の本当の意味が分かった。私にとっての二日後とはつまり、今だ。そして橋の上にいる時は、私の逆再生が終わる瞬間。あの時手紙をくれた直美は、そのことをすべて分かっていたのだろう。
 
 その時、突風が吹いた。
 目を開くと視界が開け、赤い空を背に谷中墓地の鬱蒼とした木々が大きく揺らめいているのが見えた。
 足の下を通り抜ける電車の音。橋だ。あの橋だ。ついに、この時が来てしまったのだ。
「ゆ、佑ちゃんよく大丈夫だったね。私なんて危うく橋にぶつかる所だったよ…」
 後方で直美の声が聞こえた。今のは余程強い風だったのだろう、彼女の声は弱々しく聞こえた。
 普段だったら即座に振り向いて、珍しく失態をみせた彼女をからかったりするのだろう。でも今は振り向くことができない。全てが終わる前に直美に言いたいことはたくさんあるが、気持ちの整理ができない。振り向いたら、全てが溢れ出してしまいそうな気がした。
「…佑ちゃん、さっきの話の続き聞きたいな。3組の吉沢がどうしたの?」
しばらくの沈黙の後、直美が話しかけてきた。
「…え?」
 私はつい返事をしてしまう。
「ほら、さっき喋ってたよね?クリームコロッケの話。吉沢くんに偶然会ったの?」
 何の話だかさっぱりわからない。私が来た時間の直前の会話だったのだろう。
「吉沢?」
「さっき話してたじゃない!」
 直美が少し強い調子で言った。逆再生を初めて以来、このような会話は珍しいものでは無かった。私は直美を困らせるのが辛くて、口数を減らしたり会話を短く終わらせたりしたものだ。
「……。」
「…ごめん。分からない。」
 私はいつものように、そう言って会話を終わらせた。
 空を見上げると、カラスの群が風に流されながら飛び回っていた。先ほどより空が広いせいもあるだろうが、数は増えているように見えた。
 わかっている。そんなに急かさなくたって、私は全身で勘付いている。
 私は目をつぶって住み慣れた町の風の匂いをゆっくりと吸い込んだ。微かに草の匂いがした。
 足の下で、電車の発車音がする。これは常磐線だ。親戚の家に遊びにいく時によく乗った覚えがある。
 電車が過ぎ去ったのを音で感じ取ると、私は鞄の中を手で探り、封筒を取り出した。そして小さなシールを剥がし、封を開ける。
 中には淡い水彩で縁取られた、小さな手紙が入っていた。取り出すと、強風に煽られてぱたぱたと揺れる。私は風に飛ばされないようにしっかりと両手で押さえた。
 手紙は封筒の名前と同じような繊細で整った文字で書かれていた。間違いなく直美の文字だ。彼女は小学生の頃習字を習っていて、昔から美しい字を書いていたのだ。
 私はゆっくりと一文一文噛み締めるように手紙を読みはじめた。

佑ちゃんへ

 これを読んでくれているということは、今は夕暮れの橋の上にいるのでしょうか。9月3日の午後6時半くらいかな?もしそうだとしたら、私の希望通りなんだけどな。
 後ろに私はいるのかな。まだ何も知らなくて、佑ちゃんの予測できない一挙一動にいちいち悩んでいた私。
 あの時はね、佑ちゃんに嫌われたのかと思ったんだよ。あんまり話しかけてくれないし、話をすぐ中断するし。
 でも、違った。佑ちゃんは私が悩まないように、困らないように気を配ってたんだよね。時間のすれ違いで話がこんがらがる前に、会話をなるべく自然に終わらせようとしてた。そんな小さな気配りを今は感じることができるよ。
 私は今、9月5日の夕方に廃マンションの一角でこの手紙を書いています。
橋本君の映像に映っているのをみてしまったんだけど、今手紙を読んでる佑ちゃんは別の世界からきた佑ちゃんなの? そして、原因は分からないけど、死んでしまいそうなの?
 私は残念ながら、その死を止めることはきっとできない。向こうの世界の私が気付いて助けにいくのを願うことしかできない。
 でも、こっちの世界に戻ってきた佑ちゃんが死にそうになったら私は絶対に助ける。絶対に死なせなんかしないよ。私はこの手紙を書き終わったらすぐ佑ちゃんを探しにいくつもり。そして日が暮れるまで椅子を塗るのを手伝ってもらうんだ。そして寺尾君たちとみんなで撮影して、暗くなる前に一緒に帰るよ。
 そして、ずっと友達でいるよ。大学は離ればなれになってしまうかもしれないけど、そんなのは関係ない。私にとって佑ちゃんと笑ったりふざけあったり、コロッケを買いにいったりするのはずっと子供の頃からの日常だから。日常はそう簡単には変えられないし、その日常が楽しいものだった
ら変えようなんて思わないよ。
 だから、私たちはずっと友達でいれる。
 もちろん、今手紙を読んでる佑ちゃんだってずっと友達だよ。向こうの世界の私だってそう思ってるはず。
 絶対に、忘れたりなんかしないよ。
 だからお願い。最後は笑っていて欲しい。
                                        直美より


 私はゆっくりと、背後にいる手紙の主の方を振り向いた。ビルとビルの間から西日が差し、彼女の顔は少し逆光になっていた。
「直美。」
 私は彼女の名前を呼ぶ。初めて会った公園の砂場以来、私は何度この名を呼んだのだろう。
「あっ……な、何?」
 彼女は不意をつかれたような顔で返事をした。
 私は彼女に向かって微笑む。
 言いたいことはたくさんあった。でも、きっと私にもう時間はない。だから、一番言いたかったことを一言だけ、伝える。

「ありがとう。」

 直後、私の目の前を暗闇が横切った。
 カラスだ。カラスの群が、私の視界を黒くする。おびただしい羽音が聞こえた。
 徐々に目の前から光が消えて、目を瞑っている時のような状態になる。私は無音の海を一人泳いだ。
 徐々に、前方に光が見えてきた。小さな光の欠片たちは前方遠くから来て、私の左右を高速で走り抜ける。光は規則的で、一定のリズムを刻んでいた。
 この光の流れには見覚えがあった。
 ……トンネルだ。
 ゆっくりと視界が明るくなる。気が付くと体は緩やかに振動している。
 私は電車に乗っていた。

 電車はトンネルの中を走り続けていた。他に乗客がいるようには見えな
い。乗り馴れた山手線に比べると、こじんまりとした印象を受ける車両だった。電灯は切れかかっているのか、時折不安定な光り方をする。全体的に薄暗く、椅子のクッションもつり革も年季が入っている雰囲気だった。
 曇りがかった窓の外を見ると、暗いトンネルが見えた。ここは、私があの扉をくぐった時に通った道なのだろうか。そういえばあの時電車とすれ違った記憶がある。ここが、その電車だというのか。
 私は座席に座った。クッションの弾力で体が一回弾む。そのまま背もたれに身を委ねる。行きは歩きだったが、帰りは電車に乗れるとは随分と便利なものだ。
 ここは地図のどこにも存在しない、どこの時間軸にも存在しない地下道。電車は目的地も何もいわずに黙々と走り続けている。切れかけた電灯が小刻みに光を失う度に、自分がまたどこかに消えてしまいそうな感覚を覚えた。

 体が段々重くなる。座席の背もたれに沈んでいきそうだ。それに、背中と頭が熱くて痛い。
 電灯の光が二重にも三重にも見え、ぼんやり歪んだ。ああ、この感覚は。
 その時、体が大きく左右に揺れた。電車が止まったのだ。空気を吐き出すような音と同時にドアが開く。私はしばらく座席に腰掛けながら様子を伺ったが、閉まる様子はなかった。
 私が降りないと電車は動かない。そう直感して私は立ち上がる。ここに居続ける理由はもうないのだ。
 強烈な立ちくらみが襲い、体全体が不安定な鉛玉のように重く、ふらつく。私は手すりに掴まりながらなんとか扉まで進む。座っていた座席を振り向くと、クッションと床に染みが付いていた。
 赤黒く、鉄の臭いがする。血だ。窓ガラスに映る自分は、ひどくやつれた顔をしていた。
 電車の扉の向こうは、光が溢れていた。私がそこに足を踏み出すと、景色は急速に色を帯びはじめる。鮮やかな赤い空と、生暖かい風と、草の匂い。後ろを振り向くと、電車だったはずのドアは倉庫の鉄の扉に変わっていた。
 私はベッドに寝転ぶときのように草むらへ倒れ込み、体を転がして仰向けになった。ヒグラシの鳴き声が遠く響き、赤い海に泳ぐ魚のように雲が流れていった。今、私の時間は正常に流れているのだろうか。
 ずっと左手に握り続けていたくしゃくしゃ手紙を、私はもう一度広げる。直美の丁寧な字を指でなぞった。
 状況は何も変わっていない。私は死ぬ直前に三日間平行世界を逆戻りして、また死ぬ直前に戻っただけだ。特に何も改善なんかされていない。
 でも、あの時のようなやりきれない気持ちが今は無かった。手紙の文字をなぞればなぞるほど、気持ちが穏やかになる。
 私はここで終わってしまうかもしれない。でも、平行世界の私が生き続けるのなら私という存在は消えない。あっちの世界で私は生き続けるのだ。
 だから、大丈夫。
 私はもう過去に逃げずに、この運命を受け入れる。
「直美。”私”の未来をよろしくね。」
 そう赤い空に呟いて私は穏やかに笑った。



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9月6日 18時26分
橋本環

 黒々とした深い沼のような眼球を大きく見開いたまま、彼女は虚空を見つめている。
 体は土の上に横たわり、手を横に広げ仰向けになっている。
 生温い風が時折吹き抜け、彼女の髪と白いシャツを微かに揺らした。
 先日の台風の余韻なのか、風は少し強い。
 だが、風の音以外は何も聞こえない。
 夕暮れ時の商店街のざわめきも、学校帰りの子供たちの声も何も聞こえない。
 世界が切り取られたかのように、静寂に包まれていた。
 耳をすますと、遠くで電車の通る音だけが聞こえた。

 彼女の前には鉄の扉が開かれた倉庫がひっそりと佇んでいる。扉の中には掃除道具やゴミ箱があるのを、薄らと差し込む光で確認できた。
 ”扉”はいつも開いているわけじゃない。誰に対しても開いているわけじゃない。彼女が扉を開くことができたのは偶然か、それとも扉の気まぐれか。    僕が人より多く扉を見つける事ができるのも、やはり扉の気まぐれなのだろうか。錆びた扉は風にあおられ戸が時折動き、金切り声のような音をあげていた。
 僕は、全てを記録しなくてはいけない。誰に頼まれたわけでもなく、自分自身の欲望だ。記録欲、とでも言うのだろうか。だから物心付いた時から毎日ビデオカメラを手放さなかった。
 時間を逆に移動できる世界の存在を知った時、その世界も記録しなくてはいけないと思った。そして、今この世界での記録と比較できたらどんなに楽しいだろうと思った。
 だから、そのうち僕はあの”扉”をくぐってあっちの世界に行くだろう。今はまだ早い。まだあの世界や扉の全貌を把握しきれてないからだ。
 どうして、向こうの世界に行くと時間を逆再生するのか。それはもしかしたら、過去を遡ることで何かを分からせたかったのかも知れない。
 彼女の握っていた手紙を読んだ時に、ふとそう思ったのだ。それもまた、扉の気まぐれなのだろうか。

 彼女の目線に合わせて空を向いてみる。
 空が異常なほどに、赤く染まっていた。
  カラスの群が遥か上空を飛び回る。雨風に晒され朽ち果てたコンクリートの廃墟が、無口に佇みながら光と闇の鋭角なコントラストを作り出していた。

 ふと見下ろすと、足下に赤黒いものが一筋流れて来ていた。
 彼女の血だった。
 彼女は何故か笑うような、穏やかな表情をしているように見えた。
僕はただ黙々と、ビデオカメラのレンズを止まりゆく彼女に向ける。

彼女は停止した。


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END

文・絵 宵町めめ(2008年)


最後までお読みくださりありがとうございました。

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