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【連載小説】「逆再生」 第7話

9月5日 16時12分 
小川直美

「小川ー! 適当に休憩入れてくれよ。そんな急がなくて大丈夫だからさ。」
 寺尾君がドアの向こうから大きな声で言いました。
「大丈夫だよー。ありがとう!」
 私は絵の具で真っ白になった手を振って答えました。寺尾君は照れくさそうな顔をして去っていきます。
 私は椅子の方に向き直すと、黙々と色塗りを再開しました。寺尾君がゴミ捨て場で拾ってきたみずぼらしい椅子は、白い葉の蔦が絡まる白い椅子に姿を変えつつあります。この灰色の無機質なコンクリート空間の中に存在する異質な存在というイメージで作っているのですが、これが完成して部屋にぽつんと置かれた時どんな表情を見せるのでしょうか。期待と、期待を持ち過ぎることへの不安が私の中でくるくると回っていました。
「直美、飲み物とか大丈夫? 私、買いにいくよ?」
気が付くと斜め後ろにいた佑ちゃんが言いました。
「んー、まだ大丈夫。それより佑ちゃん、あんまり一人でうろつかない方がいいよ。この建物、場所によっては結構作りが甘いみたい。」
「ふふ、直美は私のお母さんか何かなの? そんなに心配しなくても大丈夫。自分の身は自分で守れるよ。でも心配してくれてありがとうね。」
 彼女は意地悪っぽく笑って言いました。
「じゃあ、私ちょっと寺尾君の撮影の手伝いをしてくるね。直美も一人でうろついちゃ駄目だよー。」
「わ、私は大丈夫だって!」
 私がそう言うと佑ちゃんはくすっと笑い、軽やかに去っていきました。

―――私は9月5日の夕方5時半頃から、ずっと過去に戻り続けているんだ。
 彼女は昨日の夕方、確かにそう私に言いました。
 つまりたった今私が話した佑ちゃんは過去に戻りはじめてすぐの状態なのでしょう。平静を装いながらも、時間を巻き戻っているという事に対する動揺で頭がいっぱいになっていたのかもしれません。
 そうひとつひとつ考えていくと、今までの彼女の挙動不審な行動や突拍子のない言動もすべて説明できそうな気がしました。
 もちろん最初は、彼女の話を理解できませんでした。過去に戻るなんてあるはずがない、と思っていました。でもそう考えることによって解決できる様々な出来事を考えると、話はどんどん信憑性を帯びてくるのです。
 それに何より、佑ちゃんがあんな真剣な顔をして私に嘘をつくはずがありません。これは長年の付き合いが生んだ直感でした。
 だからあの話を聞いた直後は、驚きよりも安堵感の方が強かったのです。胸に詰まっていたもやもやが取れ、佑ちゃんと悩みを共有できたことは、喜ばしいことでした。
 でも、今ここにいる彼女は私に話をする前の彼女。私と悩みを共有できないと思っている彼女なのです。こうやってどんどんすれ違っていってしまうのは、すこし悲しく思えました。
 
気がつくと空は少し赤みを帯びていました。昨日の台風が嘘のように晴れ渡り、湿度を持った生温い風が錆びた鉄の匂いと共に体を抜けていきました。
 私は大きく伸びをしながら、気分転換がてら寺尾君の様子を見にいきました。寺尾君は廊下を挟んだ部屋で座り込み、ビデオカメラと睨めっこをしていました。額を汗で濡らし、肩にかけたタオルで何度も拭いていました。
「お疲れさま。どう? 撮影の方は。」
「お、小川か。おかげさまで順調だよ。そっちは?」
「こっちもそろそろ完成できそう。」
「おお! そうか早いな、さすが小川だ! これなら今日中に椅子の撮影できそうだな!」
 寺尾君は餌を貰った子犬のように、無邪気にはしゃぎました。
「佑ちゃんとか橋本君は?」
「ハッシーは上で撮影してる。坂巻は下をうろついてるみたいだけど…」
 そう言うと、寺尾君は眉をしかめて真面目な顔をしました。
「小川。昼学校で聞いた話なんだけどさ。俺、なんか段々本当のような気がしてきた。」
 私は息をのんで黙り、寺尾君を見つめました。遠くで電車が走る音だけが聞こえました。
 寺尾君は横に置いていたペットボトルの水をくいっと飲むと、先ほどより一段階小さい声で話始めました。
「さっき撮影を手伝ってもらったとき思ったんだ。あいつ、妙に手慣れてるんだよ。映像のことを熟知しているというよりは、俺が次に何をやるかを知っているような……そんな素振りだった。なあ小川。坂巻は本当に、時間を巻き戻ってんのかもな。」
「私はそうだと信じてるよ。」
 私は今日の昼休み、寺尾君に佑ちゃんのことを打ち明けました。誰かに第三者の意見を聞きたいというのもあったし、ちょうど彼が佑ちゃんの言動が予言者みたいだと言っていたので、話してみようと思ったのです。
 あまり多くの人に言いふらすつもりはなかったけれど、彼に相談したのは正解だと思っています。寺尾君が根拠なく人を避難したりしない性格なのは知っていたし、なんとなく一番信じてくれそうな気がしたのです。
「それと直接関係あるのかわかんないけどさ…ちょっと気になってたことがあるんだ。」
 寺尾君はビデオカメラの蓋を閉じ、立ち上がりました。
「俺、前にこっそり覗いちゃったんだけどさ。ハッシーの鞄に妙なテープが入ってたんだ。」
「橋本君の鞄に……?」
「ちょっとこっそり見ちゃおうぜ。」

 私たちは入念に周囲を見渡すと、荷物置き場にしている一角に向かいました。
 橋本君の学生鞄は装飾ひとつなく、藍色がくすんでくたびれていました。寺尾君はもう一度周囲を見渡して誰もいない事を確認すると、鞄のジッパーにゆっくり手をかけました。
 鞄に入っていたのは財布と定期入れと筆箱と……大量のビデオカメラ撮影用テープ。
「うわあ……橋本君はいつもこんな量のテープを持ち歩いてるんだ……」
 寺尾君はその中のいくつかのテープをおもむろに取り出し、プラスチックケースに書いてある日付けを確認していました。
「2008.8.30。2008.9.2。こっちは2008.8.25。そしてこれは……ほら、見てみろよこれ。」
「2008.9.7……!? こ、これ未来の日付だよね……?」
「2008.9.12。2008.9.10。2008.9.25!? どんだけ先まであるんだよこれ!」
 手書きで丁寧に日付の書かれたテープは、鞄の奥の闇の中に無限に入っているような錯覚を覚えました。
「なんか変だね。同じ日付のテープが二種類づつあるみたい。しかも、どれも片方はすごく古いように見える……。」
 古いテープは文字が色あせていて、紙がうっすら黄ばんでいました。
「あ、寺尾君これ。2008.9.5……今日のだよ。」
「よし、ちょっとこれ再生してみようぜ。」
 寺尾君は自分のビデオカメラの取り出し口を開き、古びたテープを入れました。
「巻き戻しはされてるみたいだな。よし再……」そう口走ったところで寺尾君はすばやく鞄を閉じ、元いた場所にそそくさと移動しました。
 耳を澄ますと遠くから階段を降りる足音が聞こえました。寺尾君はテープのケースをポケットに静かに隠しました。
「寺尾。」
「おおハッシー。お疲れ!どうだ? 調子は。」
「三脚借りていいか?」
「ああいいよいいよ。俺しばらく使わないから。また小川の椅子を撮る時に持ってきてくれよ。」
「わかった。」
 橋本君は三脚を片手で担ぐと、また三階に上っていきました。階段を上る音を確認すると、私たちは大きく息を吐き出しました。
「びっくりしたねー。ばれなかったかな……」
「だ、大丈夫だ。大丈夫。多分。」寺尾君は汗をタオルで何度も拭きながら言いました。
「よし、では気を取り直して」
 寺尾君は再生ボタンを押しました。


 テープの中の映像は、ありふれた日常風景でした。朝の町、通勤通学で賑わう駅、電車、そして学校。全てが淡々と撮影され、部分部分で編集されていました。映像が入れ替わるタイミングがうまく調整されていて、心地よいリズムが生み出されているように思えました。
「うーんさすがハッシー、撮り方うまいよなー。三脚使ってないはずなのに全然ブレないし。」
 寺尾君は感心しながら真剣に見入っていました。少し早送りすると、見覚えのある灰色の建物が現れました。
「お、ここじゃん! 今じゃね? これ。」
 カメラは私たちと建物を交互に映しました。椅子に色を塗りはじめる私、カメラのセッティングをする寺尾君、きょろきょろと目が泳ぐ佑ちゃん。ついさっきの光景が映し出されていきました。
「あれ……なんか、変だな。」
 寺尾君は訝しげな顔をして液晶画面を凝視しました。
「なんか妙な違和感があるんだよな。こんな会話した覚えないし……」
「うん。違うよ。私の椅子の塗り方の手順もほんの少しだけ違う。」
「なんなんだこれ。なんか気味悪いな。」
 映像の中の空の赤みはどんどん強くなっていきます。カメラは誰もいない廃墟の部屋の片隅や廊下をじっくりと映していました。今いる場所なのにも関わらず非現実的な映像で、まるでホラー映画のワンシーンのようにじっとりと不気味な雰囲気を醸し出していました。
 やがて画面に佑ちゃんが現れました。佑ちゃんは後ろの、恐らくカメラを気にしながら庭の倉庫の扉を触ったりしていました。
 そしてまたしばらく誰もいない廃マンションの色々な表情が映し出されていきました。空は今の時間よりも少し薄暗くなっているように見えました。
 しばらくすると、画面は再び一階の裏庭近くの場面に切り替わりました。ぼうぼうに伸びた雑草が妖しく揺れる庭へ、一歩一歩近付いて行きます。妙な緊張感がありました。
 画面は裏庭の倉庫を映しました。倉庫の扉は大きく開いていて、中には暗闇が広がっています。
 そして画面はしばらく赤い空を映し、急に地面に切り替わりました。
「……!!」
 その時、私は声にならない悲鳴をあげ、後方へ後ずさりました。
 寺尾君も驚き、咄嗟に停止ボタンを押しました。
「て、て、寺尾君、今の……いまの……」
「あ、ああ、見たか? 見たよな?」
 胸に手を当てると心臓が脈打つ音がしました。全身から一瞬血の気が引き、変な汗が出てきました。
 画面に映し出されたのは、佑ちゃんでした。紛れもなく佑ちゃんでした。
 白いシャツが真っ赤な血で染まり、目を大きく開いたままビクとも動かない少女は、私の良く知っている、大好きな幼なじみだったのです。

 夏を惜しむように鳴いていた蝉の声が、断末魔の叫びを発して消えました。
 私たちはあれからビデオを見るのをやめ、会話もせずに壁に並んでもたれかかっていました。
「あれはさ」寺尾君がいつもより低い声で呟きました。
「あれはもしかして、"平行世界"ってやつなのかな。」
「平行世界?」
「以前ハッシーが言ってたんだ。この世界とほとんど同じだけど、ほんの少しだけ違う世界がどこかに存在してるんだって。で、その世界へ繋がる扉が稀に出現するらしい。扉を入ってもう一つの世界に行ってしまうと、代わりにその世界にいたもう一人の自分が反対の世界に移動するんだとか。」
「橋本君が、そう言ってたの?」
「ああ、大分前にな。俺はハッシーの考えた映画の設定かなにかだろうと思って聞いてたんだけどさ。坂巻を見てたらあながち嘘でもないような気がしてきた。」
 平行世界。佑ちゃんは神社で、そのような事は言っていませんでした。過去へ繋がる扉をくぐって逆再生をしているとしか、言っていませんでした。だから、彼女がどうして過去に戻ろうと思ったかは分からないのです。
「俺が思うに坂巻はさ、この死を逃れたくて逆再生をしているんじゃないかな。」
 寺尾君が鋭い目をしながら言いました。
「この世界の坂巻はきっと、なんらかの理由で死に直面したんだ。そして過去に繋がる扉を開いてこっちにやってきた。そして時間を逆に過ごしているんじゃないか?」
「つまり、今ここにいるのは向こうの世界の佑ちゃんってことになるね。じゃあ、今までこっちにいた佑ちゃんはあっちの世界にいるのかな……。」
「ハッシーの話が本当ならな。」
 私は考えました。一昨日の夕方、突然雰囲気を変えた彼女。あの時の違和感の正体は、平行世界から来たもう一人の彼女に入れ替わったことにあるのでしょうか。
―――ありがとう。
 彼女はあの時そう言っていました。もしかしたらあれは、逆再生を終えて元の世界に帰る彼女が告げた最後の言葉なのかもしれません。手紙を読みながら……。
 手紙?
「ねえ寺尾君。便箋とか持っていたりする?」
「え!? なんだよ突然。俺がそんなもん持ってるはずな……いやちょっと待て。」彼は急に思い立ったように自分の鞄を漁りはじめました。
「あ、あったあった。これなんか郵便局で貰ってさ。いらねーから母さんか姉貴にでもやろうと思ってたんだけど。こんなんでよかったらやるよ。」
水彩調の魚が描かれた、小さなレターセット。
「寺尾君ありがとう。私、自分が今何をするべきかわかったよ。」
私はそう言って立ち上がりました。
窓の外を見ると、日が傾いて空は真っ赤に燃え上がっていました。

─────────────────────
続く

文・絵 宵町めめ(2008年)

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