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脱毛日記06 脱毛から考える国境問題

週一回、土曜日に脱毛機はスムーズスキンのbare plusを使用しているが、無事5回目も完了。

口コミによっては、そろそろ「言われてみればムダ毛の量が少なくなってきてるような…」みたいなことが書かれ始めているタイミングであるが、全く実感なし。

今回は久々にi字カミソリを使用し、より丁寧にムダ毛処理をしてみたが、あまりT字より優れている点は感じなかった。i字カミソリはムダ毛が長いところを始めて剃るには優れているが、現在のように週二回お手入れしている状況においては必ずしもそうではないように感じられる。定期的なお手入れをやるには、T字の方がケガの心配もなくサクサクやれるので良い。

前回問題となった、連続照射時の「移動距離の正確性」については、脱毛機をもつ側の肘を椅子などにつくことによりわずかながらも安定度をますことができた。とりあえずはこれで良しとしようと思う。

ところで、今回脱毛しようとしている範囲は両脚、両腕、髭なのだが、両脚について悩ましい問題が発生している。

どこまでが脚の毛でどこまでがお尻の毛なのかが判然としないのだ。

お尻を触ると毛が生えていることは以前から認識しており、そのことをイヤと思ったことはない。また、僕自身見たことはないのだが、20年以上にわたりお尻と腿の裏側の毛が境目なく連綿と続いていたのは紛れもない事実である。

脚とお尻の毛は部族は違うとはいえ同じ草原で暮らす住民であり、お互いの文化交流などもあったかもしれない。お泊まり会などもしたであろう。しかし、今回脚の毛を全面的に剃ったことで、突如としてムダ毛達は脚かお尻かの区別をされることとなり、脚の毛とされたものは剃毛されることとなった。この脱毛処理を続ける限りは元の環境に戻ることはもうない。あたかも大国の都合に翻弄される少数民族のようだ。まさしく、「乙嫁語り」のドラマチックな世界が、僕の腿裏のわずかなスペースで繰り広げられていると言える。

そう思うと、週二回のただのムダ毛処理も、脳内に荘厳な音楽が響き渡り、ムダ毛一本にもドラマを感じることを禁じ得ない。

風呂場で排水口へ流れていくムダ毛をみていると、国境など元々あるものではなく、文明によってもたらされるものであることを再認識される。と同時に、国境を設置するエゴを捨てられない自己利益優先の生き方を反省させられる。これにより僕の脱毛への取り組みがとまるわけでも、自己利益の追求をやめるわけではないが、少しでも反省することは大事なのではないかと思う。明日の自分や世界が、昨日より少しだけ進化し、良い状況でありますように。思うだけじゃ足りないけど、思うことも大切だと信じたい。

写真は、今回の処理を行う前のヒゲで、二日間剃っていない状態。 

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