公民館の夜(※写真は関係ありません)
普段生活をしていて『一体何に使われているんだろう』と、大して気にも留めずに今まで通り過ぎていた施設、公民館。
その二階にある会議室の長テーブルに、俺は借りてきた置物のように、かしこまって座っていた。
雪こそ降ってはいないが、外の気温はかなり低く、白壁に囲まれ広々とした会議室に、暖房が効いてくる様子は全く感じられなかった。
パイプイスと尻の間に手を挟み、指先を暖めながら周りを観察する。
集まっているのは六組の夫婦、同じ小学生の子供を持つ親の集まり。今夜は今期の子供会役員で、顔合わせを兼ねた初会合の夜であった。
こういう会合にも公民館が使われていることを、参加して初めて知るのである。
今は前任の引継資料を新子供会会長が読み上げて、休憩に入ったところであった。
「ちゃんとメモを取って失敗しないようにしないとね」
真面目な妻は前向きで、くじ引きで役員を引き当てた運のない俺を特になじるようなこともせず、嫌々参加している俺とは大違いで、とても熱心に役員として取り組んでいた。
町内に住む小学六年生の親が一年間子供会役員を務める。挙手制だが誰一人として手を挙げないので、毎年の役員改正は、自然と町内に住む保護者全員でのくじ引きとなる。役職の中でも会長職が一番大変で、次は経理だろうか。
俺は副会長のくじを引き当てていた。副会長職は会長を補佐し、会長が病気等、運営に支障をきたした時に代行する、という役回りだったので、不運の中でもまだ幸運の部類だったのかもしれない。
六組のくじを引き当てた夫婦、といっても様々で、役員に当選してしまい、思い切り夫婦喧嘩をして今夜の会に参加した感じの険悪な夫婦もいれば、役割を分担し、腹を括ったのか、てきぱきと資料を纏める仲の良さそうな夫婦もいる。
とっくに夫婦関係が破綻して、全くやる気のない冷め切った夫婦もいるし、任期の間は楽しくやろう、とやけくそになって、やたらと明るいご主人もいた。
「あなた、会長の奥さんと向こうで少し話をしてくるわね」
「じゃあ俺は外の喫煙所でタバコ吸ってくるよ」
本来なら今日は休日だ。自由に過ごせないストレス。退屈な集まりにパイプイスで足を伸ばしながら背伸びをしていると
「お茶、冷たくなってますね。煎れてきましょうか?」
と広報の役職に当たっている奥さんが声をかけてくれた。広報は一年間の思い出新聞を発行する以外は、席の前に置くネームプレートの配置や会議の準備と片づけ、雑用全般を担当する役職である。
「ありがとうございます」
俺は礼を言いながら、薄いピンクのスーツを着た肉感のある奥さんに軽く頭を下げた。
この奥さんとは先ほどまでの会議中、対面する長テーブル越しに何度も目が合った。隣に座るご主人を観察すると、席を思い切り離して距離を取り、パイプイスもだらしなく身体をずらした座り方をしており、とにかくガラが悪かった。夫婦仲は悪そうであった。きっとレスなんだろうな、と勝手なことを想像する。
熱っぽい目で俺を見つめ続け、大事そうに俺の湯飲み茶碗を両手で包みながら持つと、会議室を出たところにある台所の方へと歩いていった。
薄いピンクのスーツの下の、肉感に溢れた尻がよく揺れる。見れば黒いストッキングのアキレス腱の辺りに、蝶々のシルエットがマークされていた。
こんな真面目な会合に履いてくるものかな、と奥さんのチョイスした心理に想いを巡らせる。
改めて考えれば、この集まりで我が家はまだ、仲の良い部類に入る夫婦だろう。
夫婦仲の良い亭主はモテる、という都市伝説があったような、なかったような。
うぬぼれかもしれないが、今夜の俺は色んな奥さんから謎の視線を受けていた。
さっきのピンクの広報の奥さんを皮切りに、会議中に経理の奥さんからも何度も熱い視線を感じた。
どこにいるのか、とバラバラになっている休憩中の役員の姿をそれとなく目で追うと、会議室の端に併設されている、一段上がって設けられてた八畳の畳ゾーンに経理の奥さんは座っていた。
奥さんはテーブルに肘をつき、持参のしているストロー付きの水筒でマスクを上にずらし、お茶かなにかを飲んでいた。
ズラした隙間から覗く赤い口紅が、とても鮮やかだった。
熱っぽい目でこちらを見ている。赤い厚手のワンピースにグレーのストッキングから無駄肉のない足がスラリと伸びていた。畳に正座から足を横に崩し、少し開かれた足下は、正面の俺からは内ももの奥が完全に見えており、そのまま立ち上がれば、更に奥まで俺だけに見えてしまうだろう位置に奥さんは座っていた。
その奥さんのご主人はパイプイスに座ったままで、長テーブルの上で退屈そうに資料を眺めていた。奥さんの近くに移動する素振りは全く見えなかった。この家もレスだろうな、と俺は勝手なことを思った。
飲み終わった水筒を奥さんはテーブルの上に置いた。奥さんはまだ離れた畳の上から俺を見ている。射抜くような目つきは、俺の視線がどこに向けられているのかを確認しているかのようであった。目を逸らして水筒のストローに目をやると、真紅のルージュがストローの先端に色を付けていた。
「どうぞ」
不意の声に驚いて横を見ると、ピンクのスーツの奥さんが新しいお茶を煎れてきてくれていた。両手を添えてスッと差し出す。柔らかくなめらかな曲線を描いて、吐息のような湯気も後から付いてきた。
「ど、どうも」
ここに集まった全員に降りかかってきた重圧。当選してしまった男女皆、ストレスのせいで少しおかしくなってしまうのも当然のことのように思えた。
俺は向こうの方で真面目にメモを取りながら、熱心に会長夫婦とやりとりをしている真剣な妻の姿を見ると、煩悩を断ち切るかのように、足早に外の喫煙所へと向かった。
冷たい風が吹きすさぶ外の入り口付近では、書記の奥さんが一人でタバコを吸っていた。
「外は冷えますね」
人見知りな俺は軽く会釈をすると、場をもたせるためにタバコをすぐ咥え、歩きながら灰皿に近付いた。
冷たい風の中で、安物の百円ライターを何度もこすってみるのだが、ただ虚しく弱々しい火花が散るだけで、全く着火をしてくれなかった。
それを見かねた書記の奥さんが、微笑みながらバーナー式の電子ライターで火を点けてくれた。こんなキャバクラ紛いの姿を妻が見たら、なんと思うだろう。
「とんでもない役に当たってしまいましたね。一年間大変だわ。よろしくお願いしますね」
黒いタイトスカートに黒いストッキング。ファーの付いた黒いジャンパーをお洒落に着こなして、茶色に染めた巻き髪は俺の好みだった。
「自分のくじ運の悪さを、とことん呪いますよ」
そんななんでもない一言に、書記の奥さんはケラケラと笑いながら、俺の肩を優しく叩いてきた。
触れられた事による嬉しい反応を極力顔に出さぬよう、書記の奥さんを盗み見ると『高校生じゃあるまいし、この程度のボディタッチをされたくらいで何かあるの?』とでも言いたげな、至って普通の表情であった。
「いろいろと教えてくださいね、副・会・長」
役職で呼ばれ、俺は少しだけ得意になり、偉くなったような気がした。
「それはそうと知ってます? 昨年の役員の噂」
書記の奥さんは煙を吐き出しながら、思わせぶりに見上げるような視線を投げかけてきた。
「昨年の副会長のご主人と、書記の奥さん、不倫して子供が出来たらしいんですって」
「えっ、そうなんですか? だから両方とも急に引っ越したんですね」
書記の奥さんは俺を正面に見ながら、煙を吸い込んだ。暗闇の中でタバコの先が赤く光った。遊び慣れたような吸い方だった。
「あー、もう。家事だけでもストレスなのに、こんな役に当たって大変。現実逃避でもしたかったのかしら。前任者の方々は」
今年一年の厄介な現実から、どうにかして逃れたい、という悲痛な心の叫びが聞こえてきそうだった。
ストレスなら男だって同じだ。仕事の疲れを癒す、常に待ちわびているサラリーマンの貴重な休日が、この一年は子供会で全て取られてしまうのだから。
同情はしないが、ストレスを発散するために、不倫に走ってしまった役員の気持ちは分からないでもなかった。
「ホントひどい話ですよね。子供が生まれる、ってことは、ねぇ。そういうことをした、っていうことなんですものねぇ。で、よく考えたら私たちと同じ役職なんですよね」
無邪気に笑い出した書記の奥さんに言われるまで、俺はその符合に気が付かなかった。
『私たち』という言葉を選んでいることに、いつの間にか詰められた間合いを感じた。その事実を伝えることに何か深い意味があるのか。それとも単なる世間話なのか。
気が付けば書記の奥さんは顔を近付け、少女のようにニコニコとしていた。俺は面食らいながらも、書記の奥さんの目をジッと見た。目の中はキラキラと、中に小さな星が入っているんじゃないか、と思わせるくらいに光り輝いていた。
視線を重ねながら、これまでの人生で出会ってきた異性の事をボンヤリと思い返す。深い関係になった相手とは、まずこんな感じの目で見つめられてきたよなぁ。
近づき過ぎた書記の奥さんの唇が、半開きになった事に気付いて我に帰った。食虫植物に誘い込まれる昆虫は、こんな気持ちで吸い寄せられていくのかもしれない。
「ほんとだ。同じ役職ですね」
受け止めきれない想いをかわすように、こちらも笑いながらようやくそれだけを言うと、俺は二階の窓際で熱心にメモを取る、誠実を絵に描いたような妻の姿を認め、寒さに肩をすくめながら、なんとかこの場を早く切り上げようと、咳込むくらいの勢いで煙草を思い切り吸い込むのだった。
〜了〜
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