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溶け込みたくて

 三十歳からの中途採用で、なんとか再就職することが出来たのは良かったが、人間関係。これを構築するのは骨の折れる作業だと、つくづく思う。

 その職場の雰囲気や、社員同士の仲が良ければ、それは尚更困難に感じた。築き上げられた絆の中に割って入るのだ。同僚にナビゲート役を自ら買って出る親切な人でもいれば話しは別だが、世の中そう上手く行くものでもない。

 出勤前、タイムカードの手前にある休憩室の前で、私は恐怖を感じていた。扉は開け放たれているが、姿は見えない。

 そこから談笑、爆笑の声が漏れ聞こえてくるのだ。

 私は廊下で凍りついていた。その中に入っていくのが苦痛だった。

 それでも人付き合いの悪い男だ、と思われたくはない。妻と娘を養わなければならない。ここで、なんとか定年まで勤め上げたい。

 きっと血の気の引いた顔をしていることだろう。扉の影から、中の爆笑がひと段落するのを待っていた。

 そうして会話の合間をぬって、休憩室に思い切って飛び込んでみた。

「おはようございます」

 私は一番端のベンチに、おとなしく腰掛けた。

 しばらく続く沈黙。とても申し訳ない気持ちになる。

 一人が立ち上がった。

「ジュースでも飲もうかな」

 その男は自動販売機のある方向へ歩いて行った。

 こういうのは辛い。私が入ったせいで、空気を変えてしまった。

 できれば、そのまま談笑を続けて欲しかった。それでもこれも、向こうの思いやりかも知れなかった。それまでの爆笑が、そのメンバーしか分からない内輪受けの話題であったら、私がそこにいれば、逆に辛い思いをさせてしまうのではないか、そう思えば傷付けることに加担したくない心理が働いて、その場を立ち去るのも理解できる。

 一人立ち去ったことで、なんとも言えない感情に支配され、心がすっかり悲しくなってしまった。何も話すことなど思いつかなかった。

 私は消え去りたかった。透明人間にでもなりたかった。沈黙はまだ続いていた。

 休憩室に残ったのは、私を含めて四人であった。綺麗な女性、北川さん。これは芸能人の北川景子にそっくりで、名前を覚える苦労がなかった。

 もう一人は四十代の東島さん。男前でこれも芸能人の西島秀俊に似ている。名前も似ているから覚えやすかった。

 そして最後は最年長のボス風の、見た目は温和な、亡くなった上島竜兵に似た下島さん。これも名前が近いので覚えやすかった。

 私を救ってくれたのは美人の北川さんだった。

「確か、可愛い娘さんがいらっしゃるんでしたよね」

 渡りに船とはこのこと、この機会になんとか爪痕を残さねば。

「ええ、中学生の一人娘がいます。今の所、嫌われてはいないようです」

 少し笑いが起こった。安心する。

「東島さんのところも娘さんでしたわね。東島さん、西島秀俊に似てるから、娘さんお父さん子なんじゃないかしら」

「そんなことありませんよ。洗濯物別にしてくれって言われてますよ」

 ここで自然な笑いが四人を包み込んだ。溶け込んでいる。馴染んできている。

「北川さんのとこはどうなんですか? 美人ママの言うことは息子さんなんでも聞くんじゃないですか?」

 東島さんが北川さんに聞く、下島さんもニコニコと聞いている。

「いやだわー、美人だなんて。東島さんお世辞がお上手」

 ここで軽い笑いが包む。自然なバイブレーション。このままこの波に乗りたい。

 私はここで勝負をかけよう、と思い立った。ここで下島さんを思い切っていじろう。そして笑いを自らこの場で起こしてみよう。そして深く、この集団に食い込んでいきたい。

 受ける、きっと受けるに違いない。私は会話の切れたタイミングで、思い切って突っ込んでみた。

「下島さん、その作業帽、反対に向けたら上島竜兵そのまんまじゃないですか。くるりんぱ、なんてね」

 あはははは、という私の乾いた笑いだけが休憩室に響き、フェードアウトしていった。受けない。何も笑い声が起きない。どうしてだ? ドンピシャな形容だったし、さっきまで芸能人に似ている、という話題で盛り上がっていたではないか。

 ならば下島さんも上島竜兵にそっくりなのだから、こんなに美味しい素材、いじらない手はないだろう。

 さっきまでの穏やかなムードは完全に消えていた。左前を見ると、北川さんは血の気を失って、小刻みに震えながら下を向いている。

 右前の東島さんを見ると、さっきまでの男前が、眉間に皺を寄せて『なんてことしてくれたんだ』とでも言いたげな目で私を睨みつけている。

 何故だ、何故こうなった。芸能人に似てる話題で散々盛り上がっていたじゃないか。これは何の地雷スイッチだ。

 正面の下島さんを見た。笑っているが、瞬きを一切しない。それがとんでもなく怖かった。私の目をまっすぐに見ている。

 そうしてゆっくりと立ち上がった。両脇の二人は手荷物を纏めて立ち去ろうとしている。

「殺す、絶対に殺す。誰を殺す? お前を殺す。謝っても許さない。八つ裂きにして殺してやる。潰す、両目を潰す。箸を両目に刺して、全体重を乗っける。まず失明させる」

 下島さんは泡を吹くくらいに怒りで我を忘れていた。顔は真っ赤になり拳は硬く握られていた。

「そしてお前の嫁さんを犯す。目の前で犯す。お前は失明しているから、声だけ聞かす。それを必ずやる。泣き喚いている嫁さんの中に出す。お前の目の前でやる。絶対にやる」

 下島さんは怒りに打ち震え、左右の目が別々の方向を向いているくらいに怒り狂っている。

「そしてその次に、お前の中学生になる娘を犯す。尻の穴を犯す。泣き叫んでも容赦しない。絶対にやる。確実にやる。捻り込んで肛門ギッタギタにしてやる。歪んだクソしか出ない肛門に整形してやる。絶対にやる」

 下島さんは私がこれまでに聞いたことのないような酷い言葉を、延々と喋っている。

「そうして全部出し切ったら、いよいよお前を殺す。ノコギリで手足を切り離して、内臓を切り裂いて手づかみで全部引き摺り出してやる。必ずやる。素早くやる。そしてビルの屋上から放り投げてやる」

 出勤の時に気づいた、ビル前の変な人影の付いたアスファルトは、下島さんが関係しているのだろうか。きっと今までに誰か人を殺したことがあるに違いない。

 下島さんはまだ、唾を飛ばしながら、酷い言葉を並べ続けている。


〜完〜


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