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2012年吹奏楽コンクール課題曲I 「さくらのうた」についての一考察

某SNSでの話題を元に、一度だけちょっと深く考察するだけの文章です。
今回は、SNSではなく、Youtubeを眺めていての話題です。

自分が中高の6年間、吹奏楽部に在籍していたことは以前ちらっと申しました。
で、その音楽の情熱は吹きすさぶ現実という社会の寒風の前にいつしか潰え、音楽そのものの興味もいつしか、薄れていきました。
ですが、なぜか今年になって、音楽の熱が再燃し(それは、コロナにかかったことで長い暇が出来、つい昔演奏した吹奏楽曲をYoutubeで流して聴いていたことが遠因でありましょう)、なにか新味の曲はないかな、と探していたときのことです。
2012年 全国吹奏楽コンクール(というのがあるのです)課題曲I、さくらのうた。

今でも好んで演奏される、大人気の曲だそうです。(全国吹奏楽コンクールの課題曲が、のちに人気となり、他の年の楽団が自由曲として演奏する、継がれていく。これは実はよくあることです)
なにげなく再生した曲ではありました。
初聴は実は、開いた口が塞がらなかった、というのが正直な感想でした。
それは。

「こんなベタな曲を作っていいと思ってるのか!」
そう思ってしまったからです。

曲が始まり、華やかなハーモニーが木管で奏でられ、そこにホルンとペットが入ってきます。そこまではいい。
その後、クラリネットによってこの曲の主題(メインテーマ)が演奏されます。ここです。
この主題は、その後各楽器に手渡され、繰り返し鳴り響くのですが。
この主題が、JPOPで言うところの「階段コード+sus4(多分、E♭ F  Gsus4 G)」で結ばれるんですよ。

これがどれくらいベタかというと、小室コードくらいです。
料理で言うと、焼肉のタレかけごはんくらいです。

え、課題曲でしょ?
多少実験的なことをやるべきじゃないの?
と、薄汚い心を持つ私は思いました。
しかしですね。

悲しいことに。僕はこのコード進行が、死ぬほど好きなんですよ。
なので、例えるならば鉄鍋のジャンで、秋山醤が和えタレをただの水道水で薄めたもので出したところ、大谷日堂が、
「こんなものでぇ~ こんなものでぇ~」
と悔し泣きに泣きながら爆喰いしたような。
そんな心境で、何回も何回も繰り返して聴いて。
いわば、気に入っちゃったんですよ。ツボに入りました。
未だに、感動は色あせません。

で、何回目かのリピートのときに。
ふと、気づいたことがあるんです。おそらく、この曲は……。

以下、この「さくらのうた」という吹奏楽曲についての、考察です。

そもそも。
「さくら」というのが、手垢がついたモチーフなのですよ。
さくらが美しい、という言葉は、今や発したところで誰もが驚きなどしません。
ですが。
いくらさくらの美しさがベタだろうと、陳腐だろうと。
そんなの、桜の方で知ったこっちゃないんですよ。

そのあまりの美しさから、江戸時代より接ぎ木を繰り返して増やされていった、ソメイヨシノ。
どこの川岸にも、どこの公園にも、かならずその花は春の訪れを満天に告げて、はかないその花びらを散らせます。
そこに美しさと潔さを感じる心もまた、日本人に連綿と受け継がれている。

春はまた、新しい年の訪れ。
出会いと別れが繰り返され、一つ一つの思い出が美しくピンナップされていく。
写真に、絵に、心に受け継がれ、どんなに陳腐であろうと、自分にとってはたった一つのその思い出を、大切に心にしまうのです。

桜が美しいことが陳腐なのは、桜自身の罪ではなく、人間のスレた自意識のなせる技で。
そういう斜めに構えた人間の薄汚い皮肉など気にも止めず、桜はまた誇るように自身の花を咲かせ、そして散っていく。

陳腐であることは、手垢がついていることは、それが劣っているということではない。
むしろ、連綿と続く人間の美学を刺激し続けているという点で、とても尊いものなのかも知れない。

僕はそう、思い直しました。
そして。
この曲に合わせて、自分の「さくら」についての思い出を、重ね合わせてみました。

最初のピッコロから始まるメロディと、ホルン・ペットのハーモニーは、長調の明るさのみを伴って、希望だけつめこんだ小学一年の自分と重なりました。
やがて例の主題。ややマイナーコードなメロディと、耳慣れた進行。
それは、繰り返し咲くその薄桃色の花の、変わらない美しさに重なり、別れの感傷とリンクして、胸に迫ります。
二回目の主題。それは多分、学生最後の卒業の春。
三回目の主題。それは多分、社会に敗れ敗残していった、無職で迎えた春。
悲しみが一つ一つ増える春は、長調で始まった主題が徐々に短調に移っていく音楽と呼応しているようで。

――誰の心にもある、花。
誰の心にもある、蒼。笑顔。涙。
青空と桜の花は、誰の心も冒さない。ただそこにあるだけで、しかし僕らは満たされている。
主題のメロディの「有り体」に反し、間に挟まれる間奏は実にいろいろな音色をはらんでいます。
一人一人の心に、ちがった思い出がやどっていることを、示唆しているようです。
その、一人一人の違いも、日本という共通項でくくられた、あまりにも普遍な美しさに、それでも心を揺さぶられる。

なんて素敵なことだろう。

と、まぁ。
この曲が十年以上も愛され、演奏され続けている理由が分かりました、という話。

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