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作家18年生、noteで賞をもらう。

これでも一応作家です。

ある日、地元のbarで見知らぬ編集者に出会った。
彼は私が作家だと知ると「恋愛小説ですか」と言った。
私が当時書いていたものは、キャラクター文芸のライトミステリ、もしくはオカルト冒険小説だ。どう考えても恋愛小説ではない。
しかし、この編集者はそんな返事を望んでいるだろうか?

女の作家=恋愛小説家

ここまで単純化してものを言うからには、彼は女の作家を、ひいては女を、自分と違う箱に入れて安心したいのだ。
私は彼を安心させたくなかった。
むしろ、不安になってほしかった。
なので、私は言った。

「私が書いているのはミステリーで、×××先生と同じ担当者がついているんですよ」
「ええっ!?」

編集者は驚愕した。
いや、そんな驚くなよ、というくらい驚愕した。
以降ひたすらおろおろしていた気がする。すみません。
大人げない話だ。私が言ったのは完全に嘘ではないが、×××先生と同じ担当さんは友だちから紹介されたひとで、当時はそこまで積極的に原稿を見てもらっていなかった。これって割と嘘ギリギリだと思う。ほんとにごめん。
その日の記憶はこの会話と、白州ロックが美味しかったなあ、ということだけだ。

まあ、とにかくこれは、私の作家生活18年は、油断をするとそういう扱いをされる18年間だった、という話なんだ。

作家に個性は要らないか?

作家である日々は大変楽しいものの、上記のようなエピソードはずっと頭のどこかに刺さっていた。
作家になりたいなあ。もっともっと作家になりたい。
さらに言うなら、筆を自由に踊らせたい。

「個性は全部捨てないと、あなたの小説は読者に届きません!!」

と言った初代担当は、個性を頑張って捨てた私の小説をがっつり売ってくれたので、とても有能なひとであった(ありがとうございます)。
だからそこにもこの18年にも後悔はないんだけれど、この先も同じことをやっていくのかと言われれば、それだけじゃダメな気もする。

だって個性を全部潰すって、強みを全部潰すことだから。
自分の小説をまったく書けないと、弱くなる。
物書きとしての生命力が減ずるぞ。

そんなふうに思った私は、たまに自由にものを書くようになった。
その場は、我らが社長、紅玉いづきの同人誌。
少女文学である。

これは少女小説家になりたかった紅玉いづきが作った、紙の少女小説雑誌だ。実際には、少女小説を書くものもいれば、かつての少女小説の読み手に対して新しいもの、深化したものを提示するものもいる、そんな感じ。

ここで暴れさせてもらい、書いたものについてみんなで語り合い、私の作家生命力は大分回復しつつあった……気がする。

作家、noteで賞をもらう。

そして昨日。
2023年10月28日、私はnote創作大賞の授賞式にいた。
入選したのである。少女文学に収録していた暴れん坊小説を、文藝春秋社さまに拾ってもらった。

そんなこと、ある!?
同人誌でもあまり反響がなく、このまま放っておくのももったいないな……誰か見つけてくれないかな……と、そっとnoteというプラットフォームに再掲した暴れん坊を、文學な方々に見つけてもらうなんてこと、あるんだろうか。

びっくりした。本当にびっくりしたし、ありがとうございました。
受賞連絡をもらったとき、私はコロナにかかって40度の熱があった。朦朧としつつ、こんなことがあるならコロナも18年間「××作家ですか?」と決めつけられた人生も悪くないな、と思った。

これで何が変わるかというと、やっぱり私は小説に邁進するばかりなんだと思う。思うが、生きているといきなりゲームチェンジャーは現れるんだなあ、生きてみるものだなあ、と思う。
関係者の皆さま、本当にありがとうございました。

そして、note創作大賞は、いいぞ。


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