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庭を造る 第一話

あらすじ

『僕』は素人造園をコンテンツとする『庭系』動画配信者だ。そこそこの人気と収入を得ているものの満足はせず、新たな動画シリーズのために地方の庭付きの家を買った。さっそく動画のために庭を整える『僕』だが、この庭は何かがおかしい。奇妙な埋蔵物、幻覚、警告しに来る隣人。不安定になっていく『僕』を支えるように、行方不明になっていた弟が庭を訪れ、同居を始めてくれる。二人暮らしは楽しく、これで全部上手く行く……と思った『僕』だが、最終的には隣人によって、『僕』が意識の下に埋め続けていたすべての真実が明らかになってしまう。

第一話


 現実を美しく編集する。
 僕がやっているのは、そういうことだ。
「はい、こんにちは。ちょっとお久しぶりですね。みなさんお元気でしたか? 庭系動画配信者のガーデナーKです。今日お見せする庭は、こちら」
 明るく平淡な声でまくしたて、僕は小型カメラに向かって微笑む。思い切り表情筋を使って口を弓形にし、自分の感情とは全く関係ない笑みを浮かべる。
「どうですか? びっくりしました? 草、ぼうぼう」
 次は驚愕の表情だ。目をひんむいて口を開け、顔を限界まで縦に引き延ばしていく。充分に見せつけたと思ったら、手にした小型カメラを庭へと向ける。
 一体何年放置されたものなのか、目の前の庭には秩序らしきものが何もない。生け垣は自分の役割を忘れて生い茂って他の庭木と入り交じり、どこからか飛んできた種子は灌木になって生け垣と木々の間をみっしりと埋め、庭全体を緑の籠として編み上げている。
「ひどいでしょ。どれだけ放置されたらこうなるのかな? 日が当たってないあたりは枯れてますねえ、可哀想に。こんな悲惨なお庭が出てくるということは……? そうです。今回は当チャンネルの人気シリーズ、お庭ドクター第二十弾。困った視聴者さんのところへ行って、お庭をきれいに再生します」
 ぱぱーん。ここで派手にクラッカーが鳴る演出を入れる。
 動画編集をするのも僕だから、今このときがどのように編集されるかは手に取るようにわかる。編集は大切だ。編集がない動画はただの現実の切り取りだ。ただの現実には価値がない。視聴者が欲しいのは編集されたあとのもの、庭仕事にかかるリアルな時間と労力と金をカットしたあとに残ったもの、汚れ仕事が効率よく片付いていく快感だけだ。僕はその快感を売って金をもらう。
 僕はクラッカーから降る紙吹雪がある程度落ち着くまでの時間を数えて、白シャツの胸に手のひらを当てた。僕はどんな汚れ仕事のときも作業着らしい作業着は着ない。都会的な白シャツに黒ズボン。軍手も黒。キャップも黒。どれも汚れたらすぐに捨てられる安物だ。
「ちなみにこのお庭のオーナーは、僕。そう。僕、ついに、お庭付きの一軒家を買っちゃったんです。長かったぁ。バイト先の園芸商品紹介から始まって、ひとさまのお庭訪問とか、ご依頼されてのお庭改造、あとはベランダとか賃貸の庭でやってきましたけど。みなさんの応援のおかげで、ついについに自分の」
 そこまで言ったところで、けたたましいブザーが鳴った。
 僕の台詞は止まる。視線がさまよう。ここはカットだ。で、何が鳴っている? 警報? 違う。ブザー。玄関ブザーか。ひょっとしなくとも、僕の新居のブザーが鳴っている。
 気づいた直後に、生け垣の隙間から老婆の顔が生えた。
「こんにちはぁ。あら、イケメンさん」
「こんにちは。ご近所の方ですか?」
 僕は慌てて表情筋をゆるめた。動画用の顔は派手すぎて不信感を煽ってしまう。脳内のつまみをひねって顔を調節する。ゆるめて。ゆるめて。そう。そこで、止めて。
「そう、向かいのね。前を通ったら声がしたもんだから。ご家族はお買い物?」
 老婆は僕の敷地に入りこみ、ここぞとばかりに荒れた庭と家を見回した。堂々たる態度だ。元からこの空き家が気になっていたのだろう。
「いないんですよ、家族」
 控えめな笑顔で囁くと、老婆はだらしない笑みで返した。
「独身主義? 今時ねえ。だったらなおさら、都会のマンションなんかがいいんじゃないの?」
「そう思います? 今は郊外の一軒家がブームで。あと僕、庭が趣味で。ここ、広いじゃないですか」
「あらっ、お庭が趣味。私もね、薔薇を育ててるのよ」
『なんと! 庭好きのご近所さん登場?』
 僕の脳内にテロップが流れた。
 ご近所さんがどの程度の庭を造っているのかはわからないが、庭好きなら動画的価値がある。この歳だと動画に出る抵抗が皆無の場合も多いし、女性視聴者の嫉妬も買わないだろう。悪くない。僕は笑いのつまみを少しだけひねる。
「素敵だ。いつか、必ずうかがいます。絶対ですよ」
 熱烈な台詞をサービス。老婆は目を瞠り、ぎこちなくうなずいた。
「いつでも。いつでも、いらして。そう、これ食べる?」
 うろたえ気味にポケットからあめ玉を引っ張り出し、僕の手に押しつける。僕は老婆を凝視して微笑んだ。
「ありがとうございます。すごく、嬉しい」
「ただの飴よ? あなた、もてるでしょう。じゃあね」
 老婆はそそくさと去って行く。
 なかなかにいいシーンだ。僕はこれから編集する動画の中身を想像する。引っ越し先でいつものように荒れた庭紹介をする僕、突如発表される引っ越し、視聴者は驚く、そこへやってくるご近所さん、和やかな会話、笑顔、ああ、ガーデナーKは幸せなんだ、地方はいいね、今後の動画も期待できそう、みんなにはそう思ってもらって、はい。ここで場面転換。

 翌朝は晴れだった。少なくともスマートフォンの天気予報アプリはそう告げていた。
 夜の三時まで動画編集したあとの朝七時、僕はかび臭いダイニングでうごめいている。朝食は糖質オフの野菜ジュースにきなこと豆乳を混ぜた灰色の飲み物で、見た目も悪いし味もまずい。画面の外の生活は大体こうだ。カットできるものはどこまでも節約して、画面の中に美しいもの、楽しいものを集約していくのが僕のやり方。そうしていくと僕の世界全体がきれいになっていく気がする。
 僕は最低限のリフォームではどうにもならなかったきしみを足裏に感じながら身なりを整え、築三十年以上の安っぽい3DKから出て行く。ちゃちな扉を押し開けた途端に湿った朝の空気が押し寄せた。草の臭いには刺激臭が混ざっており、長らく野放しにされた植物の敵意じみたものを感じる。
 初夏の朝だ。
「いやぁ、清々しい朝です。僕の庭改造計画、一日目。今日は、草取り、伐採動画です。改めてご覧下さい。ひどい荒れようですよねぇ。どんなきれいなお庭でも、ほったらかしにするとこうなっちゃいます。大事なのは、お手入れ。整ったお庭を夢みて、しっかりやっていきましょう」
 僕は手際よくカメラを設置して撮影を開始した。
 僕のガーデニング動画チャンネルは始めて三年で着実に視聴者数を伸ばし、現在チャンネル登録者数は十万人に届こうというところだ。動画サイトからの収入だけで充分食えるし、地方の廃屋なら買うこともできる。
 好調だからこそ、今から始める新居の庭改造は息の長いシリーズにしたかった。僕もそろそろ三十歳が目の前だ。どこかに多少なりとも根を張りたい。
 僕は草刈り機を起動させ、手際よく草を刈っていく。このあたりは早回しになるから、喋らずに手だけ動かしていればいい。ただひたすらに丁寧に、端から端まで。
 そう思った直後、僕は手元に嫌な衝撃を感じた。
 草刈り機が、何かに噛んでいる。
 しゃがみこもうとしてからカメラの存在を思い出し、振り返って驚きの表情を作る。テロップを出そう。
『草刈り中に、何か発見!』
 今までの経験からすると、庭に埋まっているのは石か、ゴミか、でなければペットの骨と相場が決まっている。せめて動画に映せるものでありますように。祈りながらしゃがみこむと、草の間に不自然な水色がある。僕は軍手をした指でそいつを掴み、力一杯引っ張った。土塊と雑草の根がもろもろと散らばり、僕の手の中にはサンダルが残った。
 目の前にぶらさげて見つめてみる。子供用だ。土に半ば埋もれていたせいかあまり劣化は感じられない。
『なんてこった……。ゴミが埋まっていました。こういうものは土に埋めても自然に還りません。分別して捨てましょう』
 頭の中で脚本を書きながら、サンダルを横に置く。サンダルが出てきた穴には、他のゴミの端っこが見えていた。僕はうんざりしてもよかったのだが、どちらかというと妙な気分になった。心の端っこがめくれるような気分だ。
 少しだけめくれたシールを見ると、ひとは爪を引っかけてみたくなる。僕はそういう気持ちで腰に巻いた作業用エプロンのベルトからシャベルを取り出し、穴を掘った。
 出てきたのはサンダルのもう片方だ。
 そして、キャップ帽。
 へし折れたプラスチックの箱、いや、虫かごか。ご丁寧に安っぽいベルトもついている。
 夏休みだな、と、僕は思った。子どもの夏休みで使ったものが、まるごとここに埋まっている。そう思って僕は少し笑った。夏休みを庭に埋める、というのは強い言葉だ。なんでそんなものを埋めるんだ。ゴミになったからか?
『夏休みって不思議ですよね。始まる前は冒険に満ちた素晴らしいものに思えるのに、終わってみたら全然大したことはないんです。使い終えた夏休みはゴミ。捨てるしかありません』
 そんな脚本が通せるか。視聴者には母親が多いのだ。彼女たちは子どものために庭を整えている。僕の母みたいに。
 僕は深く息を吐いた。次に当たり前のように吸おうとしたが、なぜかあまり上手くいかなかった。息苦しい。大陽は空を駆け上っていく最中で、温まった庭はねばつく草いきれを吐き出している。もっと深く息を吸いたくて、僕は立ち上がった。
 両手を広げて肺を開き、青臭い酸素を体内にぐうっと入れていく。体は庭の奥を向いていた。視線の先には伐採前の木々が生い茂っていた。絡まり合った木々が造る、深い陰。
 そこに子どもが立っていた。
 僕の庭に、子どもが。
『おや、お客さんですね。サンダルの持ち主かな?』
「ねえ、あなた」
 背後からの声にびくりとして振り返る。
 そこにいたのは、赤。真っ赤なワンピースを来た、老婆。ご近所さんだ、昨日会った。彼女は四分の一に切ってラップをかけたスイカを持って立っており、赤のワンピースに止まった蜂が、ぶうん、と飛んだ。
 僕は顔を編集しきれず、雑に口を開く。
「何?」
「何って、差し入れよ」
 ご近所さんが不満顔になったのを見て、僕はゆるやかに瞬いた。まぶたの裏に先ほど見たものがちらつく。木の陰に立つ子ども。僕を見ている子ども。あれは、本当にいたのか?
「ああ、ありがとうございます。スイカですか、いいな。ひとりだと買いづらいんですよね」
「そう思って持ってきたの。朝から頑張ってるみたいだし」
 ご近所さんは笑顔を取り戻し、僕の背後をうかがった。
「ずいぶん刈ったわねえ。あら、何か出てきたの?」
「何かってなんです」
 急にどす黒い声が出る。ご近所さんは顎を引いた。
「ちょっと。怖い声出さないでよ。穴を見ただけなのに」
「穴ですか。そう、ゴミが出てきちゃったんです。前の方が埋めたんでしょうけど、ひどいことしますよね」
 僕はわざとらしく響かないように祈りながら脳内の脚本を読み、先ほど見たものについて考えている。
 庭の端にいたのは、確かに子どもだった。棒きれみたいに素っ気ない足は少年のフォルム。顔は、顔はどうだった。思い出せない。見なかったのだろう。さっきの僕は動揺していた。もう一度振り返って、近所の子どもなら追い出さなくてはいけない。だが、できない。なぜか、できない。
 ぼくはなぜか、振り返るのが、恐ろしい
 振り返れない僕はご近所さんを見ている。ご近所さんは穴を見ている。そして、妙にうつろな声を出す。
「ふぅん。前ここに住んでいらした方も独身の男性で、お子さんはいらっしゃらなかったはずだけど。何かしらね?」
「あれ、そうなんですか。じゃあ、近所は? この辺って子ども、いるんですか」
「昔はいたわよ。私の子どもだっていたし。でも、もう時間が経ったから。他の場所にいるの」
 ご近所さんの声がしみじみとし始めたので、僕は話を切り上げようと決めた。このまま中身のない過去話を聞かされるつもりはなかった。カットして、次のシーンへ行く。
「だったら、この辺に子どもがいたころに埋めたゴミなんでしょう。近所のゴミを、ここのひとがボランティアでまとめたのかな。ゴミ処理方法以外はいいひとでしたね」
 僕はいい加減に言い、ご近所さんからスイカを奪う。
「スイカ、ありがとうございます。もう少し作業して、そのあといただきますね」
 爽やかな笑顔を浮かべ、カットだ、と心の中でつぶやいた。それでもご近所さんは穴を見ていた。彼女は現実だ。現実は、カットできない無駄なシーンの連続だ。無駄だし、誰も望んでいない。僕は口を開き、閉めた。
 早くご近所さんに帰ってほしい。でないと、少し、よくないことを言いそうな気分だった。
 と、そのとき。間延びした男の声が響いた。
「あのぉ。お取り込み中?」
「あれ」
 僕は驚いて、声のほうを見る。
 僕の庭を取り囲む生け垣の隙間に顔がある。無精ひげに円いサングラス。うさんくさい美男子だ。
「来ちゃった」
 そいつは長身痩躯を深く折り曲げて、生け垣の隙間に空いた穴から僕の庭に入ってくる。黒地に熱帯の花々が描かれたアロハを着た猫背の男。僕の、弟だった。
「どうしたの、久しぶりだな」
 弟に向ける僕の声は、思ったよりもリラックスしている。顔も自然に笑みを浮かべていたかもしれない。自然に表情を作るなんて、一体何年ぶりだろう。
「ちょっと話があって。しっかし、すげー庭だね」
 弟はポケットに手を突っ込み、猫背のまま楽しげに庭を見回している。そのおどけかたが、実家の庭を駆け回っていた少年期の姿と妙に重なり、僕は自覚的に笑ってしまった。
「知ってるだろ、庭の動画で食ってるって。今も動画撮ってた。お前、来るんだったら来るって言えよ。撮り直しだよ」
「ごめぇん。ちょっとした通行人として処理してよ」
「無理。なんならカメラに向かって挨拶しな。前にも一度あっただろ、偶然映っちゃったこと。今はうちのチャンネル、十万人弱見てるよ」
「ほへぇ、十万かあ。でかいのはわかるけど、でかいってこと以外はよくわからん数だね。俺、校庭に並んだ全校生徒の数までしかピンとこないよ。あ。おばあちゃん帰ったみたい」
 弟に言われて我に返ると、確かにご近所さんの赤いワンピースは影も形もなかった。いきなりやってきた弟と僕が親しげに話し出したものだから、居心地が悪くなったのだろう。
 挨拶もなしで申し訳なかった、という常識的な気持ちがわき上がり、すぐにしぼんで消えていく。
 僕は改まって弟に礼を言った。
「ありがとな」
「兄貴は昔っからご近所付き合い苦手だもんね」
 当然のように言い放ち、弟はにこにこと僕を見ている。
 反論しようかとも思ったが、ただの真実だからやめておいた。弟と話すのは気持ちいい。何も隠さなくていいし、ストレスフルなことも言われない。
 気が大きくなった僕は、大急ぎで振り向いた。気になっていた庭の隅を見る。先ほど子どもがいた庭の隅は相変わらずひどく暗くて、木々は相変わらず生い茂っていて、子どもの姿だけがどこにもなかった。
 ほっと息を吐く。子どもは最初から居なかったのかもしれない。居なくなったのかもしれない。どちらにせよ僕が関知するところではない、と、心の底から思えた。
 背後から弟の声がする。
「でさあ、相談なんだけど。兄貴、しばらくここに住まわせてくんない? 俺、今までいたとこ、追い出されちゃって」
「どうせそんなところだろうと思ってた」
 僕は苦笑してカメラに手を伸ばす。今日の撮影は終了だ。弟は僕のプライベートの登場人物だから、録画を切って家の中に入ろう。家の中は動画の外だ。
 僕はカメラの電源を落とす。液晶が真っ黒になって僕の顔が写る。僕の顔だけが。

 その日から弟は僕の家に居着いてしまった。
 予想通りの展開すぎる。
 弟が唐突に庭に現れてから一週間めの朝、弟は安い合板のダイニングテーブルに両肘をついて聞いてきた。
「ね。動画配信者ってモテるの?」
 動画配信者になって以来、その問いは五十回以上聞いたし、最初に聞いたときから二度と聞きたくないと思っていた。
「モテたいの?」
 僕は竹製の箸をフライドエッグの真ん中に突き刺す。半熟の黄身の表面がぷつりと裂け、かりかりに揚がった白身の端に向かって中身があふれ出していく。作ったのは弟だ。彼がやってくると、僕の食生活は一気に改善される。
 僕の弟は二十代半ばにもなって定職に就く気配はないが、代わりにおそろしいまでの生活力を持つ男だった。普段は音信不通なくせに、年に一度ほど僕の住処にやってきては、ほんの数日で根を張ってしまう。
 今回の弟は我が家の古びたキッチンを百均の道具で磨き上げ、朝から必ず卵か肉を調理して、その後は中古自転車でふらふらと街に繰り出していく。夕方近くになると律儀に戻ってきて、河原で昼寝をしただとか、コインランドリーで毛布を洗っただとか、卵が安いスーパーまで足をのばしたとか、些細な報告をするところまでが彼の日課だ。
 ようは外向きの人間なのだ。幼児のときも公園でもじもじするようなことはなく、初対面の幼児たちと遊び回っていた。今も同じことをやっている。
 弟は美しい焼き目をつけたトーストの上にフライドエッグを載せ、信じられないくらい大きな口を開けてかぶりついてから、当然のように言う。
「俺はね、モテたいよ。無差別に、誰にでもモテたい」
「だったら向いてるよ、配信者」
「マジか。気持ちだけは向いてるか。けど、他の細かいことは一切向いてないな。俺、なんでもそうなんだよな」
 弟は自覚的だ。だからうっとうしくない。
 僕はうっすらと笑う。
「ほんとお前はなんでもそう。五歳のときからそう。ちなみに僕は誰にもモテたくない」
「なんで!」
 目を丸くする弟は、五歳のころと同じようにかわいらしい。もちろんそんなことは口に出さず、僕は糖質オフの野菜ジュースをすすりながら不明瞭に答える。
「人見知りだからかな。僕はそういう目的で動画をやってないし、最近はコメント欄も見ない。見てるのは数字だけだよ、数字は大事。最終的に七十七億目指してるし」
「笑う。永遠にやりたいのかよ、動画」
「生きてる限りはやりたいよ。皿洗おうか?」
「俺がやるよ。居候だし。兄貴は動画撮るんでしょ? 生きてる限りは」
 微笑む弟は、まさに人生の潤滑油だ。僕の生活のぎしぎしいっていたところすべてに入りこみ、なめらかに回るようにしてくれる。これまでどうやって弟なしの生活を送ってきたのか、今の僕にはよくわからない。おそらく、弟がいないときの僕は生活をしていないのだろう。動画を撮って、編集して。動画にならないプライベートの部分は省略してきた。そうまでして動画を撮る意味があるのかと言われれば、もちろんある。僕は現実を、僕の現実を記録して、編集する。
 そうだ、動画を撮らなければ。
「時間やばい、もう行くわ」
 悠長に朝食をとってしまった。僕は慌てて空になった皿をシンクに置き、念入りに身支度を調えた。
 カメラと三脚と庭道具を掴んで初夏の庭へとまろび出ると、すでに日差しはまぶしいくらいに強まっていた。僕は何度も瞬きをする。初夏から夏にかけての庭はやかましい。あらゆる生命が沸き立ち、あっという間に勢力を増してくる。一週間前にやった草刈りの痕を覆い尽くして、新たな雑草が首をもたげている緑の庭。その中心に穴があった。
 サンダルが出てきた穴。あの穴は一週間で庭の半分ほどの大きさになった。シャベル一本で僕が掘ったのだ。僕は自分で育てた穴の縁に三脚を置き、小型カメラをセットした。レンズをしっかりと穴に向けて録画ボタンを押し、僕はカメラの前に立つ。きゅっと動画用の笑顔を浮かべて、僕はまくしたてた。
「いやぁ、清々しい朝です。僕の庭改造計画、第四回。どうですか? 見違えましたねえ。大きくなったでしょう、穴」
 僕は背後の穴を指さしたのち、足下に広げたレジャーシートからがらくたをつまみ上げる。
「これは昨日掘ったぶんなんですけど。お皿。きれいですね。長く土に埋まっていたはずなのに、陶器って強いんですね。縄文式土器なんか縄文時代から残ってますからね。土を焼いたものって土に還らないんですね。見て下さい、このかわいい柄」
 カメラの前にかざした皿には、馬に乗った猫、という倫理的に難しい柄がかわいく描かれていた。
 穴ができてから、僕は動画のテーマを少々変えた。庭改造シリーズから、庭の穴から何が出る? シリーズへの変更だ。この動画シリーズはまだ一本も公開していないけれど、視聴者には受ける自信がある。他人の庭をのぞきたいような人間は、そもそも他人の領域に興味があるのだ。他人の家の庭に空いた大きな穴。そこから次々に出てくる、謎の物品。誰も死なない、傷つかない、ちょうどいい日常の謎。
「思い出すなあ、子どものころ。僕、親が弟のために買ってきた皿が気に入っちゃって、欲しいって言って泣いたんですよ。今思えば弟、可哀想でしたよね。普段は僕のお下がりばっかりで、弟専用の皿って珍しかったんだろうな。親が、結構強く駄目だよって言ったのを覚えてます」
 いつの間にか弟の話をしていたけれど、これも視聴者には受ける。以前、まだ僕がコメント欄を見ていたころ。動画に偶然映りこんだ弟を見て、コメント欄が一気に賑わったことがある。仲の悪い兄弟ならばいらだったかもしれないが、僕らは一緒にコメント欄を眺めながらビールを舐めたものだ。
 思い出を引っかき回しながら手を動かすと、穴の中からぼろぼろの布きれが出てきた。引っ張ってみると、それは子ども用のタンクトップ下着だ。僕は笑った。
「見てくださいよ、今度は下着。やっぱりここに埋まってるのは子どもの夏休み一式なんじゃないのかなあ。あ、ほら、これ、このビニール。ひょっとして、ビニールプールかな」
 語りながらやぶけたビニールプールを引き上げ、砂場道具を掘り出し、子どもの靴下をひとそろい、レジャーシートの上に並べる。
 他人の夏休みを引っ張り上げていると、自分たちの夏休みのことも思い出す。僕と弟の夏休みは、母が趣味でDIYした古民家の庭にあった。室内は母の王国だったけれど、庭までは目が届かない。僕らは力一杯遊び、作り込まれた庭で乱暴に転がった。あの頃は僕のほうが図体がでかかったからなんでも有利で、弟の武器は愛嬌とアイデアだった。今は弟のほうがでかいが、心は五歳のときと大して変わらない気がする。
「終わった?」
 撮影が終了し、僕が機材一式を抱えて玄関に向かうと、ぼろ自転車を引いた弟が声をかけてくる。僕は無精ひげの顎を見つめて答えた。
「終わった。お前は今日は何したの」
「じゃーん」
 弟はまた五歳児の顔で笑って、ペンキだらけの板を見せつけてきた。
「汚ぇ板」
「味があるの。工事現場手伝ったら、足場板くれたんだ」
「工事現場手伝ったって、つまりお前、働いたってこと? すげえな、一応働けるんだ?」
「うわあ、嫌味。居候のほうが得意だけど、働けないわけじゃないよ。買い物もしてきた。ごはん、ちくわキュウリと、鯖缶炒めと、肉屋のメンチと、スーパーの寿司でいいでしょ?」
「場末の居酒屋じゃん。いいけど」
「いいならいいじゃない。美味しいよ」
 弟は笑いながら玄関先に足場板を立てかけ、しわしわのビニール袋片手に家へと上がる。つなぎに包まれた広い背中を眺めて後に続くと、玄関の三和土にシックな黒いタイルが貼られていた。僕は家の中を飾らないから、やったのは弟だろう。
「今日も、なんかよくなってる」
 僕はつぶやき、注意深く室内を見渡した。薄暗すぎたダイニングには、あちらにもこちらにも電球をぶら下げられている。ひとつの光量はたかが知れているけれど、これだけあれば充分明るい。どこかお祭りめいてさえいる。光が落ちるダイニングテーブルには花柄のガラスコップが置かれ、雑草の花さえ生けてあった。僕はテーブルに歩み寄り、しげしげと花を見る。僕ならば草刈り機で一気に刈ってしまう花だった。
 弟は壁付けのキッチンに向かい、つなぎの袖をまくる。
「母さんもこうだったよね。趣味は家の中をよりよくすること、って感じだった。家は古かったけど、俺らが学校から帰ってくると、何かがちょっとよくなってて」
「お前は母親が大好きだったよな」
 成人する前に縁が切れた母親のことを思い出しながら、僕は冷蔵庫を開ける。かつて野菜ジュースしか冷えていなかったそこに、今は外国産の瓶ビールが並んでいる。僕は二本取り出して王冠を外し、一本を弟が料理しているシンクに載せた。
 弟は微笑み、キュウリを切る手を止めてビールの小瓶を手にする。そうして、一口飲んだあとに言う。
「でも母さん、俺たちが手伝おうとすると怒ったじゃん」
「そうだっけ?」
 弟に言われて思い出そうとした。が、上手く行かない。テーブルについて雑草を眺めながら思い出してみたものの、浮かぶのは弟に何か言われて笑い転げている母さん、晩ご飯の食卓でひどく眠そうな母さん。野外の作業台に向かうときの真剣な横顔、そのくらい。怒った顔はひとつもない。
 ただのひとつも。
「あんまり怒るひとじゃなかったよ。お前が何か、仕事の邪魔でもしたんじゃない?」
 僕がぞんざいに答えると、弟はテーブルの真ん中に水色のボウルを置き、僕の向かいに座った。
「子どものやること、大人にとっては大抵邪魔だよね。今の兄貴は、俺に邪魔されたら怒る?」
「今はお前、大人だろ。邪魔より助けになってる」
 僕は答えながらボウルの中をのぞきこむ。子どもっぽい器の中にはちくわキュウリがひしめいていた。僕は竹箸をボウルの中に差しこみ、ちくわキュウリをひとつだけ拾い上げる。ボウルの底にきらきらした星の柄が垣間見え、このボウルも庭の穴から出てきた食器なのかな、と、僕は思う。
 確信はない。僕はもうすべての埋蔵物を覚えることはできなくなっていたし、食器のいくらかを弟が再利用するのを止める気もなかった。何せ本当に数が出たのだ。すべてを庭の隅に積んでおくのも邪魔なくらいに。
 弟はにやりと笑って、ちくわキュウリを指でつまんだ。
「照れるねえ。そういや兄貴、玄関の足場板。何に使う気か聞きたくない?」
「聞かない方が楽しそう。サプライズ」
「ひひ。それもいいね。母さんみたい」
 弟は足をじたばたさせて笑い、ビールを一気飲みした。
 そうこうしているうちに時間は溶ける。気づけば夜中だ。
 僕は我に返って腰を浮かせる。
「やべ。こんな時間」
 弟が、アルコールでとろんとした目で僕を見上げる。
「動画編集する?」
 僕は慌ててテーブルの食器をかき集めながら答えた。
「するする。あと、そろそろ庭の穴シリーズの配信も始める気だったんだ。第一回、反応気になる。先に風呂入っといて」
「それはいいけど、誰か来てるね」
 弟は言い、頭をひっかいた。
 僕はきょとんとして振り返る。
「どこに? 誰が?」
 聞き返してから、玄関を見た。この家の出入り口は、玄関と庭に面した掃きだし窓だけだ。掃きだし窓にはシャッターを下ろしている。となれば人が来るのは玄関だけ。
 ダイニングの一角に直接取り付けられた玄関扉はひどくボロく、扉上部には曇りガラスがはまっている。
 そこに、人影がある。曇りガラスごしに、ぼんやりと浮かぶ誰かの頭。誰だ。見えているのは頭のてっぺん。
 来訪者は背が低い。
 ……子ども?
「俺、出るよ」
 事もなげに弟が言い、止める間もなく三和土に降りていく。弟は得体の知れない来客と、ほんの三十センチも離れていないところで立ち止まり、素っ気なく問う。
「誰」
「ごめんなさい。ご迷惑でしょ? でも」
 外から、少しくぐもった声。
 ご近所さんだ。赤いワンピースの老婆。
 子どもじゃない。そう、子どもじゃなかった。
 僕は少しだけほっとして、三和土の方へ踏み出した。
 弟は三和土の上から動かない。彼は素っ気ない顔のまま、冷たい声を出した。
「何しに来たのか、今すぐ言って」
「昼間……あなたが、庭を掘っているのを見ていて」
「見てたの? 今日、庭を掘るのを?」
「はい。でも、あの。本当は、ずっと、見ていました。この一週間、こっそり、ずっと。ずっと、見ていて。それで、そのことで、今日は、来ました」
 ずっと。
 その言葉が耳に残って、僕はぶるりと震えた。
 庭に壁を立てていたわけではない。見られても仕方のないところはある。しかし、編集されていない動画撮影現場を、一週間も見られたというのはショックだ。僕が見て欲しいのは編集後の動画であって、生のあの庭ではない。断じて違う。
 なぜ。と、思う。
 なぜ、そんなことをしたのだろう。なぜ。老婆は何を見たかったのだ。庭か。穴か。僕か。
「兄貴のこと見たかったに決まってるじゃない」
「え」
 心を読んだようなことを言われ、僕は顔を上げる。
 弟はドアから視線を逸らさないまま、まくしたてる。
「この人、どう考えてもただのご近所さんじゃない。いい歳して赤いワンピースなんか着てめかしこんで、わざわざ動画撮ってる途中に遊びに来てさ。その後ものぞいてたって? 絶対兄貴の動画のファンでしょ。動画ファンっていうか、ストーカー? ひょっとしたらご近所さんですらないんじゃない? ナマで兄貴に会いたくなって、兄貴のこと追っかけて場所特定してきたんじゃない? きっとそう。絶対そうだよ。ひょっとして兄貴、東京に住んでるときからこういう嫌がらせ受けてたの? それで引っ越してきたの? だったら最低だよなあ? 兄貴の仕事の邪魔する奴は、最低だよな?」
「待って、お願い、話を聞いて!」
 老婆の声が切羽詰まる。
 僕はこういうとき、何を言っていいのかわからない。動画の中でならいくらでも饒舌なキャラクターを演じることができるけれど、本当の僕はひどく臆病で人付き合いが苦手だ。
「待ったら何になんの? 念のため言っとくと、兄貴は無差別にモテたいほうじゃないんだよ。迷惑でしかないんだよなあ、あんたみたいな視聴者」
 だるそうに言う弟に、扉の向こうの老婆は食い下がる。
「本当にごめんなさい。確かに、私、あなたの動画を見ました。こんな時間に押しかけるなんて、気持ち悪いと思われても仕方ありません。でも、私、どうしてもお話したくて」
 やはり、視聴者なのか。しかも、編集前の僕に会いたい視聴者なのか。編集前の僕なんて、何者でもない。何がどうしたら、そんな者が欲しいと思えるんだろう。
 僕が完全に固まっていると、弟が玄関扉を蹴りつけた。
「帰れよ、おら! 迷惑だっつってんだろ!」
 聞いたこともないような獰猛な声に、ご近所さんは悲鳴をあげる。が、それだけでは退散しなかった。退散するどころか、どんどんと扉を叩く音が聞こえてくる。
「お願い! 帰ります。もう帰りますから、せめて」
 ご近所さんは一度言葉を切り、思い切ったように続けた。
「穴から出てきたものを、くださいませんか?」
 穴から出てきたもの。死んだ夏休み。そんなものを持って行ってどうするのだ。僕の形見と思って枕元にでも飾るのか。
 弟はあきれ果てたように首をかしげた。
「あのね。俺を怒らせたら、警察、呼んであげないよ? もっとひどいことするから」
 弟の脅し文句は妙に軽々しく、だからこそ不気味だった。普段とまったく反対の不気味さは僕の心を逆なでしたが、彼は僕を守りたいだけなのだとも思う。弟は昔からヒーローに憧れる少年だった。昔の彼はマントをつけてヒーローになりきり、悪役に向かって決め台詞をいう遊びが好きだった。
 弟はしばらく外の様子をうかがい、やがてあっけらかんと笑う。
「帰ったみたい。風呂入って寝よ」
 すっかり元通りの、朗らかで気のいい弟だった。

第二話↓


この記事が受賞したコンテスト

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