見出し画像

傷を抉って、背中を押す『すずめの戸締まり』

2016年、2つの映画が公開された。『シン・ゴジラ』と『君の名は。』である。

過去と現在、2つの時間軸と男女の入れ替わりを通して、ティアマト彗星で死ぬ多くの人の運命を変えようとする『君の名は。』。
現代の日本を舞台に、ゴジラと人々の戦いを描いた『シン・ゴジラ』。

「ティアマト彗星」「ゴジラ」という虚構を用いているが、どちらも「東日本大震災」がモチーフになっていたのは明らかだ。当時は震災から5年。日本人があの悲劇を経験してから、各々が考え、エンタメに落とし込むまでに、それだけの時間が必要だったとも解釈できる。

新海監督は『君の名は。』で一躍日本を代表するアニメ監督になったわけだが、出る杭は打たれるのが世の常で、ものすごくいろんなことを言われたらしい。
新海監督作品特有の男女の描写・関係性の微妙な気持ち悪さをつっつかれるだけならまだいいが、「過去改変によって災害による死をなかったことにした男女が結ばれる」という展開について、難癖をつける人もそれなりにいた。

それに対して「怒られるのはもう仕方ない」と吹っ切れて作ったのが、2019年公開の『天気の子』だった。『君の名は。』で控えめだった監督の色をこれでもかと滲ませた作品だったのをよく覚えている。作中の主人公は、自分を救ってくれた一人の女の子を助ける道を選ぶ。それが結果的に、日本に災いをもたらすことを意味していたとしても、僕たちはそれを受け入れる。受け入れた上で生きていく。そういう映画だった。

来たる災いに「立ち向かった」のが『君の名は。』「受け入れた」のが『天気の子』。『君の名は。』から現在に至るまで、新海監督は一貫して「震災後の日本」を意識した作品作りをしてきた。では、次は?

『すずめの戸締まり』は、前2作と異なり「2011年に東日本で起きた大震災」がそのまま登場する。しかも、その表現から逃げていない。時折発生する地震の描写は、アニメーションとは思えないくらいリアルで、わざわざ公開前に注意喚起するだけのクオリティがある。津波の直接的な描写こそないものの、建物の上に打ち上げられた船が、東北の地で何があったのかを暗に教えている。
正直、すごく驚いたし、観ていて自分の作品のようにヒヤヒヤした。「こんな作品が大々的に全国で公開されるって大丈夫なの……!?」と。

でも、これは裏を返せば「逃げずに描く」という監督の覚悟なのだ。実際、パンフレットのインタビューでこう話している。

映画では固有名詞を用いてはいないですが、小説版では明確に2011年に日本の東側で列島の半分が揺れるような大きな地震があったと書きました。基本的にはエンターテインメントの冒険物語ではあるんですが、根底にあるのはあの震災です。

新海誠本

この作品で描かれる日本は、震災が「日常」になった世界。「厄災がどうしようもなくべったりと日常に貼りついている」と監督が表現するように、我々が震度3から4の地震を日々受け入れている今の世界なのだ。
主人公のすずめは、日本各地の廃墟に眠る「後ろ戸」を閉じながら、九州から東北までを旅していく。その中で、自身が記憶の奥深くに閉じ込めていた「悲劇」を思い出し、受容し、前に進む決心をする過程を描いている。言ってしまえばそれだけで、前作までのように世界が大きく変化するわけではない。あるのは、一人の少女の小さな心の変化だけである。

そう、今作は徹底して「彼女自身の物語」を描いている。
『君の名は。』には立花瀧がいたし、『天気の子』には天野陽菜がいた。でも、今作にそんな救世主は登場しない。自分の気持ちには、自分で決着をつけるしかないからだ。
これも監督からのメッセージなのだろう。自分を救ってくれる救世主を待つのは、あまりにもリスクが高すぎる。でも「自分自身」はいつだって近くにいる。誰にどんなことを言われても、支えられても、救われても、最後に前を向いて歩くのは自分の意志。だから結局、自分で自分を救わなきゃいけない。いつでも、誰にでもいる救世主は「自分自身」なのだと、この映画は教えてくれる。

今作を観て、古傷を抉られたような気持ちになる人は少なからずいると思う。実際、怒っている人をたまに見かける。その感情はとても正しい。
けど、それと同じかそれ以上に、背中を押された気持ちになる人がいるはずだ。
今の高校生は、当時はまだ小学生になるかならないかの年齢。そんな彼らを含めた震災「後」の私たちに向けた映画なのだと気付いた時、私はとても嬉しく思った。

このような難しいテーマに対し、最後まで逃げずに描ききってくれた新海監督には、この場を借りて敬意を表したい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?