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拝まれる母

2010/2/15


母の腕に、二重に巻きつけられたナースコール。
「どうしたのよ、これ? 自分でやったの?」と訊くと、母は可笑しそうに、そして少し得意げに「自分でやったのよ」と小さく笑う。

「夜中は頭が馬鹿になる」と、母は言う。
夜の8時ごろに処方される睡眠導入剤を飲んでも、最近の母には滅多に効かず、深夜に何度かナースコールをするらしい。

足が痛いとか、布団が寒いから上からタオルケットを掛けてくれとか、暑いからタオルケットをどけてくれとか、そういったようなことで。

人手の足りない深夜に、些細な用事でコールする母は、スタッフの間でも「困った患者」になっている様子。

「『掛けろっていうからせっかく掛けたのに、もうはずすわけ? どうすればいいのよ?』って言われちゃったわよ」と、ゆうべのスタッフの泣きごとを、母は意地悪な口調で私に報告する。

「『お願いです、お願いだから呼ばないで。私たち忙しいのよ』って、私のこと、神様みたいに、手を合わせて拝むのよ」と、してやったりと言わんばかりにほくそ笑む。

母は少し前に担当医からも言われたのだ。気持ちは解るけど、夜中はスタッフも忙しいから、ちょっとナースコールは我慢してほしいと。

その時は、「イヤなこと言われちゃったわ」と眉間を曇らせていたけれど、その後も結局母の行動は変化なく、相変わらずナースコールを握りしめている様子。

自分の好きなスタッフに来てほしいと願ってコールするのに、嫌いなスタッフが来ると、「ドキドキしちゃって、何のために呼んだんだか忘れちゃうのよ」と母は言う。

入院してから約1年4カ月。初めのころは新しい患者として、いろんなことを訊かれたり答えたり、驚かれたりおだてられたり、注目される場面が多かったけれど、特別何らの変化もない今、かまわれることが減ったせいで、母は猛烈な欲求不満に陥っているに違いないのだ。

もともとの神経過敏と相まって、その強烈な自己顕示欲が歪んだ形であらわれているんだと思う。

ナースコールが母からのものだと判ると、「行きますからちょっと待ってくださいね」と言ったきり「いつまで待っても来やしないのよ!」と、吐き捨てるように母は言う。

「それじゃあいつか、狼少年みたいになっちゃうわよ。本当に苦しい時にコールしても、『ああ、またあの人か』って来てくれなくなっちゃうわよ」と私が言うと、「ふんっ、来た時には死んでるわね」と片頬をひきつらせる。わが母親ながら、怖いなあと思う。

本当にこの頃、母の口から出る言葉は、恨みと怒りと愚痴ばかり。「あのSの野郎…」とか「あの眼鏡のちびデブ…」とか私の前ではスタッフを言いたい放題だ。


母の神経過敏は、私に遺伝した。ちょっと暑いとか寒いとかなんとなく冷えるとか。音が気になって眠れないとか。枕の高さの具合がどうも頭にフィットしないとか。小さな物音にもすぐ目を覚ますとか。そういったようなところ。

自分の身体はもちろん、自力では布団や枕を動かすこともできない母だから、眠れない夜に何かと頼みたくなる感覚は、実は私にはとてもよく解る。それでも大抵の人はそれほどには神経質ではなく、仮に同様に神経質だったとしても、大抵の人はそれを我慢するのだと思うと、母に言った。

「私自身も肝に銘じておくわ。そういうことは、やっぱり我慢しなくちゃいけないんだなって」深刻に言うのは哀しいから、やっぱりいつもみたいにちょっと笑いながら、私は言った。

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