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母のつづら

2010/7/19


私が病室に足を踏み入れると、この頃の母はいつも眠っている。

それでも大抵はほんの2~3分のうちに、今日は私が洗面スペースで手を洗っている間に、母は目を覚ますのだけれど。

「この頃、眠くて仕方ないの」って母は言う。うつろな目をして、宙の一点を見つめている時間が長い。声がほとんど聞き取れないくらい小さくなってきたので、耳を顔に近づけながら、それでも何度か訊き直す。

「もう、通じないから、いいっ!」と、母は小さく暗く怒るのだけれど、
なんていったって主語もないし、話があまりに唐突なので、一体全体何の話を始めたのか、見当のつかないことが多いのだ。

今日だって、急に「歯医者が半分くれた」って私に話し出す。誰の話なんだか、どこの歯医者なんだか、何を半分なんだか、さっぱりわからない。

「瓶の中よ!」と母は苛立ちを見せるのだが、どこの瓶なんだか、何の瓶なんだか、さっぱりわからない。

「見てみればいいじゃない!」と母は怒る。「ポーチの中よ!」

母のベッドサイドの化粧ポーチを開け、白色ワセリンの小さなプラスティックボトルの蓋を開けると、ワセリンの量が増えているようだった。

要するに院内を定期的に巡回する歯科医と歯科衛生士が母のところに来た時に、何かのきっかけでワセリンの話になり、少なくなりかけていたボトルの中にワセリンを補充してくれた、ってことのようだ。

「これ、瓶じゃないですから」と私が笑っても、以前のように笑い返してはくれない。

この頃の母は、とにかくすべてが不満ですべてがつまらなく、他人のいろんなことが羨ましく、他人のいろんなことが疎ましい。

いつのまにか隣のベッドもお向かいのベッドも違う患者さんに代わり(亡くなったのではなく、病状によって移動することが多い)、新しい人が来るたびに冷たい視線で観察を続ける母。

お向かいのアルツハイマーらしき幸せそうな女性が、スタッフからヨーグルトを「おいしいっ!」と言って食べさせてもらう姿を、母はとてもとても暗い、軽蔑したような眼差しで、じっとりと見つめている。

女性は呂律の回らない口で、でもまだはっきりとスタッフに、自分の夫がいつ来るのかと訊ねている。
「わからないけど、いつもと同じで夕飯の頃じゃない?」と言われると、嬉しそうに納得して見せる。

そしてしばらくは寝ながら、言葉にならない言葉を女性はひとりごちている。「一晩中あんなこと言ってるの。うるさくって…!」と、吐き捨てるように母は呟く。

たまたま母が背負わされてしまった認知症というつづらの中身は、暗く醜く怖ろしいものばかりがたくさん詰まっているのかしら。

いつか私もつづらを背負う日が来るとしても、どうか神様、私にはもう少し、綺麗なものが詰まったつづらをくださいよ。って、アマイかしら。


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