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【短編】メタモルフォーゼ  〜 晩学作曲家のモノローグ 〜 第1話

 日常生活をここに記すことに、ためらいの微塵もないと言えば嘘になる。

初めのうちは人生に幻滅しかけていたことがあって、それが後々なんとか持ち直して生きるすべを探り出し、結果は好転し始めたのだが、お恥ずかしいことに、初めのうちは細々と生活をしていたのが実情だった。

自分のキャパシティの上限が低いことに愛想を尽かし、自分の好きなこと以外は無能で、なんて弱くて薄っぺらの存在なのだと思っていた。

弱い人間性をここで暴露するわけではないが、世間が何故これほどにもつらいのかをずっと思考していた時期だった。

それは当時、背中に戦慄が走るほど、今までの生活が一転しかねない危機に直面し、人生の転機を迎えることになった。

すでに歳も五十に手が届いていて、どう生きていくのか困り果てていた頃のことをまず話すことにしよう。

仕事に関してのことなのだが、働くことは嫌いではなかったが、身体は弱く疲れやすい体質で、一日の労働時間8時間をかろうじて耐えしのいで勤務はしていた。

中小の工場で和菓子の製造をしていたのであるが、一日の原材料の仕入れが少ないため、およそ4時間で所定の製造工程作業が完了してしまっていた。

そのあとの何もすることがないわけではなかったが、暇があるのはこれまたつらいもので、あっちこっち動いて新しい仕事を見つけは雑務に時間を費やしていたという、甚だ、惨めな思いをしていたのである。

もちろんそんなことばかりではなく、急きょ新しい仕事を頼まれることも少なくなかった。

早く終わらないかと定時の時間を待ちわびて、チャイムが鳴ると同時に仕事場を後にする。

もともと高い給料をいただくほどの役職に就いているわけでもない。

毎日ひっそりと目立つこともなしに、自分ひとりの仕事を続けてきた。

退社したら、独り者の男のすることはたいがい決まっていて、メシをアパートで作るのは面倒であるから、帰りがけに職場か自宅の最寄りの界隈で食べていくことにしていた。

金もあまりかけていられないのが実情で、安上がりの駅構内の立ち食いそば屋だとか、駅前の定食チェーン店に飛び込むのがルーティーンであった。

気分が落ち込むのもしょっちゅうで、仕事に対する複雑な心境から海のどん底に突き落とされ、そこでもがき苦しんでいる感覚を伴っていた。

入った牛丼店で、並盛の牛丼の盛られたどんぶりの表面に紅ショウガをたっぷりと覆いかぶせてため息をついてはかっ込む。

食べながらも自分の単調な生活に不安な感情を拭い去れずにいたのである。


 一方で常日頃から自分に諭してきたことがある。

音楽大学で学んだ作曲学が唯一無二の取り柄であって、無名の音楽大学とはいえども、作曲科を一応普通に卒業していたこともあり、そのあともクラシック音楽で特に現代音楽の作曲をコツコツと続けていた。

特にこれを本業にしようというつもりはその時点ではなく、普通に会社勤めを希望し、一定の収入で生活をしていくことにしていた。

その傍らで生活水準が低くて苦しくても、ただ作曲だけはやめることはしたくなかったのである。

逆にやめたくなるような心境にはなれず、その当時は創作活動に意欲を燃やしていたというよりは、身体から作曲の技法である和声や対位法、楽典などのノウハウ、そして楽器の機能性の理解というものが抜けていくこともなかった。

それでいて、音楽を飯のタネにすることも考えていなかった。

要するに欲がないうえに、作曲だけは続けたい気持ちは強かったことになる。

作品も自分で下手なピアノを演奏してYouTubeに上げるようなことはしていた。

チャンネル登録者はまだ少なくてその時は十五人。

一年に二回くらいはコンサートホールで室内楽作品の発表はしてきたのである。

無理のないライフワークのようなこの活動は和菓子製造の仕事とは別に、自分の時間を確保しながら創作をしていた。

比較的毎日、頭のスッキリしている出勤前1時間と夕食後に2時間程度で五線紙に向かっていた。

曲をいつまでに仕上げるとか、できた曲は誰それに演奏してもらいたいという計画性はほとんどない。

ただ極々稀に演劇団体や仲の良いチェリストから曲の委嘱があったので、そんな時は締切りを目標に踏ん張っていたこともあるにはあった。

これと並行して3ヶ月後には最新のピアノ三重奏曲の発表を控えていたが、その曲もまだ終止符も引けておらず、演奏者に迷惑はかけてしまっていた。

一日の作業量はもう少し取りたいくらいで、本番には余裕を持って臨みたいといつも思っていた。

演奏はフェイスブックやツイッターで友達になっている演奏家に頼み込んで、リハーサルも何度か行ったうえで格安で演奏してもらうのが常だった。


                     [第1話 了]

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