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西行の旅衣

 「あなた、刺さってるわよ」
 後ろから声を掛けられた。振り向くと老婆が立ち去るところだった。年齢に不似合いな猛スピードで。
 え、なんだろう。体を回してみても、何かが刺さっているのは見えないし、刺さるという言葉から想像するような痛みは、どこにも無かった。日中はまだ暑いというのに、早くもダウンコートを飾るショーウインドウに半身を映しながら、近くにあったショッピングビルのトイレに飛び込んで、鏡の前に立ったが、何も無い。ここまで来る間に、不審な眼差しを向ける人もいなかった。聞き間違えたのだろうか。そそってる、とか。しかし、たとえ私がむせ返るような色香の持ち主であっても、わざわざ声は掛けないだろう。
 女子トイレの全身鏡を占領し、合わせ鏡の要領で背中を見ながら、この間、三重に住む従妹が所用で上京しているので「会わない?」「ささって空いてる?」とメールを寄越した時のことを思い出した。「?」と返すと、あ、ごめん、こっちの方言だった、ささっては、明日明後日の次の三日後のことだと教えられた。だから三重の「しあさって」は四日後だ。
 鏡の近くにいた若い女の子に、あの、すみません何か刺さってませんか、と聞くと、驚きながらもじっくり背中を見て、いいえ何も、と答えた。ふと若い子が使うほうの「刺さる」かもしれないと思った。心に響く、というような意味で使っているのを聞いたことがある。何かが老婆の琴線に触れたのだろうか。

 初めて傷を負った人を見たのは小学校二年の昼休み、学校で転び病院に運ばれた日だった。隣の診察台では、階段から刃物を持って転がり落ちたという、山田理容室と胸に刺繍の入った上っ張りの床屋の主人が、ううううと唸っていた。酷い怪我だったのか、寝かされたままの私の目の前で、治療が始まった。血を拭きとってぱっくり開いた瞬間の腕の傷口にはすでに刃物は無く、刺さっているものを抜いたのか、転がり落ちる途中で手放したのかは知らない。私は頭を打ったので、抜糸だの、脳波の測定だのと、そのあと随分長い期間、古めかしいその病院に通うことになり気が重かった。今でも赤ん坊の爪切り鋏すら、手に持って階段の傍に行くことはない。

 「あの、刺さってますか?」
 私は、街を行く親切そうな人に聞く。ほとんどが礼儀正しく背中を見て「刺さってませんよ」と答えてくれる。時折「刺さってますね」と答える人がいて、「何が刺さっているのですか」と聞くと、いや、ええと、とか言葉を濁してそそくさと立ち去るが、ああ、やはり刺さっているんだ、と安心するようになった。

 刺さっているものが、クローヴなら良いと、比較的気分の良い日に、カレー専門店のレシピを真似て作った、やや生姜が効き過ぎの自作のマサラチャイを飲みながら考えた。クローヴは、どこか正露丸のような甘い匂いの、錆びた古釘のような見た目のスパイスの一種で、胃腸薬や口の中の香薬として古代から使われていたというが、かつて疫病が流行った時に流行したのが、高価だったクローヴをぶすぶすと突き刺したマスクだというから、すでに刺さっている私は、無敵の健康体ということになる。

 「着て縫ってごめんなさい 私は旅で急ぎます」
ふと口をついて出た。子供の頃、じっとしていなさい、という言葉と共に母に歌わされた歌。服を着たまま、繕ったりボタンを付けたりする時のおまじないだ。着たまま縫う着針、家を出る直前に縫う出針は良くない、悪運に見舞われる、という迷信があると知ったのは大人になってからで、突然思い出したのは、刺すということに敏感になっていたからだろう。
 「西行も 旅の衣に 急かされて 着ていて縫うも めでたかりけり」という歌が元になった俗謡らしく、「服を着たまま縫うくらいに旅を急がなければいけない。それほど忙しいのはありがたいことだ」と言う意味で、旅する人も弘法大師だったり、西行法師だったり、徳の高い有名人の名を借りていて、地方によって言い回しに違いもあった。歌人として著名な西行は人造人間を作ろうとしたことがあるらしい。
 私が覚えていたものは、幼い子供が覚えやすいように翻訳したものなのか、高いとは言えない教育を受けた母のオリジナルなのか、母が幼い頃住んだ仙台のものなのかはわからない。もう何十年、この歌を歌わずに着針、出針をした。―あなた、刺さっているわよー私の体には数えきれない針が刺さっていて、老婆はそれを指摘しにきたのだ。
 「刺さってますか」
 あの日の老婆に似た人がいると聞いてみる。小柄で白髪、四季を通じて、首に巻いた花柄のスカーフに、毛糸のカーディガン、浮腫んだ足に分厚い靴下、二十一センチくらいの黒豆のような靴。老婆はみんなよく似ている。
 「刺さってますよ」
 「それなら抜いてください」
 「抜くことは出来ないのよ」
 「困ってるんです」老婆の腕を掴んだ。
 「無理よ」
 「お願いです」
 「駄目なのは、あなただってわかっているでしょう」焼いてしまえば骨壺の半分も満たさない位の、折れてしまいそうな細い体なのに、こちらがバランスを崩すほどの力で振りほどき、猛スピードで去っていった。(了)


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