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1.猫みたいに暮らしたいのだ


夏になってしまいました。

この文章を、わたしは書いたり消したり、もう一ヶ月も悩んでいます。
お、今回はいけるぞ、と思っても終わり間際になると、これって嘘じゃない?書く意味なくない?となってしまうのです。
書かなきゃいけないことはわかっているのに、一行も進んでいないのです。
困ったことです。


タイトルをつけるとき、
おじいちゃんちの縁側で昼寝をしているちーちゃんの姿を思い出しました。
ちーちゃんの本名は、皆川ちひろ、くロひげのメンバーの一人です。
2011年から、くロひげは彼女の祖父の家で滞在制作を行ってきました。
と言っても、年柄年中滞在してるのではなく、おじいちゃんが、老人ホームにショートステイして、1か月か2か月、家を空けるごとにお邪魔していただけでしたけど。
古い大きな家で、一階の和室に縁側がついていて、庭先には、よく野良猫が遊びに来ていました。その後、おじいちゃんが老人ホームに本格的に入所することになって、家は取り壊され、今ではマンションが建っています。
わたしは、家が取り壊されるというのを初めて体験しました。建物が壊されるのは、見たことがありましたが、自分が暮らしていた家が壊されるというのは、初めてでした。

あの家に暮らしていた頃、わたしたちはとてもヒマで、でも大人だったのでとても自由でした。
好きなときに寝て、起きて、作品をつくって、ごはんを食べて、よく言えばすべてのことが自由でフラット、悪く言えばけじめなく、洗濯をすること、料理をすること、寝ること、食べること、片づけること、トイレに行くこと、今日あったことを話すこと、そういう生活の行為をするわたしの身体と、作品をつくるわたしの身体は互いに侵食しあい、混じり合っていました。

演劇は群れでつくるもので、ちょっと犬っぽいところがあります。
この時間には、この部屋に集まって、これをするっていう一つの合図に全員が従っていく。はじまりと終わりがあって、メリハリがある。
あの生活は、猫っぽかった。
今でも、あんな風に暮らしたいなあ、と思います。
家があって、そこには生活と演劇しかなくて、いつのまにか演劇が生活に取り込まれていくような。演劇のはじまりと終わりが失われるような。

でも、現在のわたしは、当時の暮らしの限界も知っています。
だから多分、わたしはなんとかこの文章を書こうとしていて、
だから多分、くロひげはどうにか新しい活動をはじめようとしているのだと思います。


この文章を書こうと思った直接的なきっかけは、2016年春号の「ごはんえんげきおしゃべり」に掲載された、「くロひげのこのごろ」という記事でした。
「ごはんえんげきおしゃべり」は、くロひげが発行しているフリーペーパーで、メンバー全員が記事の執筆を担当しています。
発行するに至った経緯についても、のちのち書くことができればと思います

このごろくロひげは、演劇公演をしていません。
公演をせずに、演劇をできないかしら、と考えています。
たとえばみんなで借りた家で暮らすことや、手紙を書くこと。
このフリーペーパーもお手紙です。
それから、毎月メールマガジンを発行しています。
手紙を書くとき、送る相手のことを考えます。
だれかをおもうことは演劇っぽいなあ、と
漠然と思います。
  「ごはんえんげきおしゃべり2016春号 くロひげのこのごろ」

この記事を読んだとき、まず、すごいな、と思いました。
次になんだかもやもやしました。
わたしたちが家を借りて暮らしていることや、メールマガジン、フリーペーパーを発行していること、手紙から自分たちが求めてるものと同質の匂いがしているなあと考えてることは本当です。

でも、それはなんでだろうか。
わたしたちは説明できるだろうか。

もやもやしたまま、進んでいくのだって悪いってことではないと思います。
だけど、こう思う、と口に出した以上、理由を説明できないでいるのは仁義にかけるって気がするのです。
仁義は置いておいても、やっぱり、わたしは説明したい、どうにか伝えたいんだと思います。


それはきっと、家の外に人がいるってことに気づいたからです。



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