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5. REC/PLAY, プレイ

途方にくれたわたしの心当たりは、そこへ布団を敷くことでした。

少し時を巻き戻して2013年8月半ば。
「おじいちゃんち」は取り壊しが始まっていましたが、家屋はそっくり残っていました。ただ、それは建物が残ってるというだけのことで、中に入ると、工具が積んであったり、土足の跡が付いていたり。そのふるまいの痕跡がここは「工事現場」だと言っていました。

8月16日、ワークショップを終えて餃子を食べてビールを飲んだ帰り道、誰かが「おじいちゃんち」に泊まってみようと言いだしました。よく覚えてないのですが、いけだと北村が一緒にいたので、どちらかが言ったのだと思います。酔っぱらってたし、ワークショップが終わった後の高揚感も手伝って、その足で「おじいちゃんち」に向かうことにしました。

入れば、相変わらずの荒れ具合です。
ふと、わたしは台所に赤いホーロー鍋が置きっぱなしになってるのに気づいて、蓋を開けて覗いてみました。中で何か腐ってるのか、内側には見たことない小さな虫がびっしり張り付いていました。すばやく閉じて、二人のところに戻りました。
「この家は死んでしまったらしい」。ぼんやり思いました。 二人には、鍋のことも虫のことも黙っていました。なんとなく言ってはいけないような気がしました。

それから、三人で布団を敷きました。
この家の布団は種類も大きさもバラバラで、普通に敷くと必ず誰かが布団と布団の段差の上で寝ることになります。なので、わたしたちは家にあるものを駆使して平らに敷く術をマスターしていました。薄い布団の下には毛布を仕込み、寸足らずな部分には座布団を重ねて、パズルのように組み合わせていく。そうやって変わらない調子で動いていると、不思議とここが「家」に見えてきました。

抱えている布団の重さ、寝る前の穏やかでワイワイした雰囲気、調整してもできる微妙な段差、布団が敷いてある風景そのもの、ついさっきまですっかり忘れていたことが目の前で再生されて、なんというか、まさしく「おじいちゃんち」なのでした。
工事の人のふるまいが、家を工事現場に変えたのと同じように、わたしたちのふるまいが、家を生き返らせたんでしょうか。

そんな気もします。
それだけじゃない気もします。
わたしたちは、あの家で演劇しながらのんきに過ごし、過ごしてるうちにそれはレジャーから生活になり、そこには名づけようのない小さな「おきまり」がたくさんありました。例えば、ごはんだよーと呼んだときに薬師寺がいれば黙っててもちゃぶ台を出してくれる確率が高いとか、朝起きて玄関に自分の靴が無いときは、前の晩に掃き出し窓から家に上がったまま忘れてるとか。「おじいちゃんち」は建物のことだけじゃなくて、きっとそういう、わたしたちの身体に染み込んだふるまいにまつわる小さなことの連なりでもあって、それなら、「家というより小屋」と言われたHIGESOも「おじいちゃんち」みたいになれるに違いないと思いました。もちろん、急には無理だろうけど、何度も何度も繰り返し、布団を敷いて、「ごはんだよ」と呼んで、食器を使って洗ってしまって。それが普通に、生活になったら、わたしたちの身体に馴染んで記録されたら。

これ実は誤算があって、ひとつは物があまりに少なすぎたこと。もうひとつは、自分たちが歳をとっていくこと。時間と一緒に自分たちが歳をとってライフスタイルに変化があることを、わたしは勘定に入れそびれていたのです。

そうそう、鍋に虫が湧いてることは、次の日、二人に教えました。めったに見られるものじゃないから、見るといいよと勧めましたが、あえなく却下されました。

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