人はいつから段ボールが「ただの箱」にしか見えなくなるのか
外出を控えたことでここ1年はAmazonでものを買うことが増えた。部屋の隅に置かれた抜け殻になってしまった段ボールを見て、たまたま昔のことを思い出した。
小さいころ家に段ボールがあると退屈することがなかった。
ピタゴラスイッチを作ってみたり、車を作ってみたり、ゴム鉄砲を作ってみたり。近くのスーパーや商店街のお店に「段ボールください!」と言ってまち中から段ボールを集め、家の一室を段ボールで作った巨大迷路にしてしまったことは今でも鮮明に覚えている。
まだ幼稚園か小学校の低学年だった自分にとって、段ボールはただの箱ではなく、無限の可能性を秘めた見ると遊びたくて仕方がなくなるものだったらしい。
しかし、今見ても流石に同じように遊ぼうとは思わない。ただの箱であってそれ以上でもそれ以下でもない。
いつの間にか段ボールが「ただの箱」にしか見えなくなっているらしい。
(ちなみに、段ボールの可能性とかそういう話がしたい訳では決してない。)
これまで自分は歳を取れば取るほど、知識や経験が増えるから、1つの物事に対して複数の側面から見ることができるようになるのだと思っていたが、全てがそうなるのではないらしい。
知らず知らずのうちに、今の自分にとって最も都合の良いものに見えているのかもしれない。
例えば、水は喉の渇いた時には飲み物に見えるが、手の汚れている時には汚れを洗い流すものに見える。
みんな同じものを見ているようで、それぞれ全く違う物に見えているのかもしれない。
そう思うと、自分が何を(物理的に)見て、それがどう(認知として)見えているのかを発信することは意味があると思えるし、他の人がどういう風に見えているのかすごく興味が湧くようになった。
別に何か結論が出た訳でもなく、Amazonの段ボールを見てこんなことを考えてたというただの報告になってしまったが、たまにはこういう日常の気づきについてのnoteもいいかもしれないなと思い書いてみた。
文体の統一感とかは気にせずとにかく自分の頭の中をできるだけ外に出す習慣をつけて見る1年にしてみる。
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