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中学受験に携わる【われわれ】の責任

以下は、2024年2月、新6年上のbcクラスの週テスト第2回を経て考えたことです。

問題量が多すぎる

長めの物語文二つ、80,50,40,40,80,75字の記述。選択問題に抜き出し問題も普通にある。これを50分。問題の分量が多すぎると思った。多くの人は面くらい、解答しきれなかったのではないか。

テストがこれなら、もっと早く読ませなくちゃ、と思いたくなる。たしかに、もちろんスピードも大切。

ただ、ここは「急がば回れ」だと思う。

むしろ、テストで試せなかったからこそ、もう一度復習で丁寧に読み直し、解き直す。

どんな問題だろうと、どんな結果であろうと、ちゃんと読めたか、解くプロセスはちゃんとできたか、知らない語彙はないのかをしっかりとふり返る。それが結果的には【解く】スピードの向上につながる。

そして、今回の週テストに100%対応できていた必要は、全くない。

中学受験全体の長文化傾向

実際に自分も時間を測りながら解いてみて、分析して、生徒さんに授業で解説した。そのうえで抱いた感想としては、

「これはあんまりだよ」

と思った。

長めの物語文二つ、80,50,40,40,80,75字の記述。これに選択問題に抜き出し問題。漢字語彙問題。

これを50分でbcクラスの子がきっちり全問向き合うことなんて、できっこない。全部なんとか埋めることはできたとしても、答案をブラッシュアップするため何をどう取捨選択するか推敲する時間なんて、まるで取れない。一つ一つの問題自体には無理はない。だけど、トータルとしては、これはあんまりだよ。

これじゃあ全ての問題に向き合おうとする人より、一部の問題に「向き合わない」で捨ててしまう判断ができる人のほうが得するじゃないか。問いに向き合わない人が得するようなシステムって、どうなんだ?とも思った。

(いや、科目に限らずそういう視点も受験では必須だ、ということは承知していますので、「甘えんな」とか言わないでください)

まあ、端的に結論を言えば、「もう少し問題数を減らしても適切に力が測れたんじゃないのか」ということ。これでこの話は終わることなのだ。ただ、それを結果的にしてないというところに、最近の中受国語の負の側面が隠れている気がする。

それは「中受全体における長文化傾向」

今回の「記述量が多い」というのとは少しずれるけど、処理スピードが物を言うという点でここは共通していると考えている。

模試を制作する上で、最終目的となる入試問題の傾向には無関心ではいられない。

源流は大学入試改革

長文化傾向。その源流をたどっていけば

塾テスト→私立中高一貫校中学入試→大学入試

つまり、共通テストの長文化傾向にぶち当たると思う。

共通テストを突破できるような子供たちを中学入試で選別したい。
そのために長文化しよう、会話文を入れよう、複数テキストにしよう、という流れ。

なぜ共通テストはあんなに長文化しているんだろう?

実際におそらくセンター試験の問題を作成した先生のポストをみかけたことがある。大学に入ったらたくさんの文献に当たらなければいけない。そういう意味で今の長文化の流れは、大学で用いる力を測るのに適切だ、という内容だった。

それは分かる。

それに、中学入試の選別手段として長文化が機能しているかといえば、それも確かに否定できない。6年生の段階で速読できる、大量の記述を処理できる能力を持つ人が、きっと大学入試でも良い結果を出すだろう。

これも(残念ながら)分かる。

分かるけど、じゃあ、そうした処理速度を求めるような傾向を、すべての中学受験する小学五年生に適用していいのか?というと、それは話が別ではないでしょうか。本当に、彼ら一人ひとりのことを考えた内容になっているのでしょうか。

中学受験に携わる【われわれ】の責任

そして、「話が別」であるはずなのに、【われわれ】(自分もその片棒を担いでいるということを戒めるために、あえて主語をとても大きくしています)は、そうした大学受験の流れに、、

安易に追従しているところはないか?

作問者が問題を増やすのは簡単にできる。何バイトかデータ量を多くして少しインクを余計に使えばいいだけ。で、データを取れば平均点が下がったという結果だけが返される。「ああ、このくらいの分量を出せば平均点は53点になるんだね」と。それで終わり。

でも、その向こうには、増えた分の問題のすべてに全力でぶつかって乗り越えなければいけない、一人ひとりの小学五年生が確実に存在する。増えた分の負荷を一身に背負って、「時間がない!どうしよう」と思いながらテストを受けさせられる子供たちが。

で、その心の動揺が結果に悪影響を与えれば、お父さんお母さんの心も乱れる。「うちの子はこんなに頑張ってきたのに、読解力がついていない、または落ちているのだろうか」と。

いえ、ついています。毎週塾に通って、予習シリーズの問題に向き合っているのであれば。「漢字とことば」をコツコツやっているのであれば、国語の力は少しずつ確実についています。今回のテストがそれを測るものさしとしては十分に機能しなかっただけです。

さてここで、共通テストの問題を作っている大学の先生方は、その影響がまわりまわって四谷大塚の小学五年生にまで降り掛かっているということに、責任を負うべきか?きっと、そこまでは責任を負えない、と仰るのではないでしょうか。

じゃあ、誰が負うのか?

【われわれ】でしょう。

少なくとも、目の前の小学五年生が適切に語彙を習得し、適切に読み、適切なプロセスで問題を解く。その手助けをするのが塾であり、塾講師であり、親であり、家庭教師である。

今この段階で大学入試のことを考える必要なんてないわけで。

ただ、中学受験をする以上、この長文化の流れには逆らえない。なんとか泳ぎ切ってもらう必要がある。

適切な教材で、適切なテストで、ちょっとずつ実力をつけてもらいたい。

ただ今後も、テストが最近の傾向を踏まえようとする限り、長文化したり、問題過多だったりすることも、きっと起こりうると思う。

そんな過酷な状況に向かい合っている小学五年生に、どう声をかけて、どのようなスモールステップ(©ナガセ)を用意してあげるか。自分はとにかくそのことを考えなければいけないと思った。

最終的には、マス向けの塾テストの攻略を考えすぎるより、将来的な過去問への対応を考えていくことのほうが重要だというのが、現時点での自分の方針ではあるんですけどね。

そういうわけで、こちらもなんとかサポートしていきますので、次の週テストも、よろしくお願いします。四谷大塚様。

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