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【手のひらの話】「おかえりのひと 」

久々に晴れ渡った日の午後、彼は部屋を出て行った。

正確に言うと「出ていったようだ 」。

その時私は掃除機をかけていて、彼が出て行ったことに気が付かなかった。


週末のまとめ家事。平日は仕事の帰りが遅くて掃除機なんかかけられない。おまけに梅雨に入り雨続きだ。窓を開け放って掃除をするのも久しぶりだった。

まるで掃除機に、カーペットに当たるようにして背を向けていた私に嫌気がさしたのだろう。

隅のほこりを吸い込んでスイッチをオフにした時には、もういなかった。

部屋から彼の気配は消えていた。

「え?ちょっと! 」

思わず声を上げる。スティック型掃除機を放り出して玄関に向かった。ドアは閉まっている。鍵もかかっていた。

次は窓を確認する。網戸から入るかすかな風にカーテンが揺らめいていた。

「 信じられない…」

掃除を終えた部屋の中央で、私は立ち尽くした。



彼との暮らしは長い。

この部屋に越して来てから5年が経つ。

仕事の忙しさにかまけて、最近は会話もおざなりだったと今頃反省する。

掃除もいい加減だったし、食事だって満足のいくものだったか。自信はない。

自分のことで精いっぱいで。

私は彼をないがしろにしていた。



窓辺に立つ。

昨日まで降り続いた雨の恵みを受けて、眼下の緑はいきいきとしていた。

風が心地よい。

こんな天気の良い日曜日。イライラ掃除をするくらいなら、のんびり一緒に過ごせば良かった。

すべて後悔の言葉しか出てこない。


いつも一緒にいてくれたのに。

私の帰りを待っていてくれたのに。

大事な存在に気付けないなんて、私はバカだ。

視界がぼやけてくる。

あなたがいて、どんなに心強かったか。

私は彼に何をしてあげられたのかな。

なんだか泣けてきた。

自分のふがいなさに。


このまま帰ってこなかったらどうしよう…。



ふと背後で小さな音がした。

キッチン横の小窓の辺りだ。慌てて駆け寄る。カフェカーテンが揺れていた。

カーテンをめくると窓が開いている。

「 カナコ」

私を呼ぶ声がした。

「 え?どこ?」

声の主を探そうと辺りを見回す。

「 カナコ、オカエリ」

カーテンレールに一羽の鳥がとまっていた。

ブルーの羽色のセキセイインコ。

「 オカエリ、カナコ、オカエリ」

首をかしげながら何度も繰り返す。

「ただいま〜」

立場の逆転した再会の挨拶を私たちはした。


おかえりなさい。


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