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【手のひらの話】「陽炎ベンチ」

夕方とはいえど青空が覗いている。

先ほど夕焼け小焼けのメロディを聞いたはずだが。この町ではそれが午後5時を知らせている。

いつまでも日は暮れそうになく、ムワッとした空気が辺りを包む。Yシャツの背中は濡れていて気持ちが悪い。今日は1日外回りだったのだ。

それに気づいたのは坂の手前だった。懐かしい匂い。

「まだ使う人いるんだな」

蚊取り線香の匂いがした。

塀の前に竹製のベンチが置かれている。

「お休みください」の貼り紙まで。

何かの店なのだろうか。それらしい看板はない。

せっかくだから休憩するか。

お言葉に甘えることにした。1日歩き通しで足が棒になっている。

「麦湯でも飲みなされ」

腰を下ろして目を閉じていたら不意に横から声がした。

慌てて跳ね起きる。

「あ、すみません勝手に」

白いランニング姿の老人が小盆を持って立っている。麦湯って何だっけ。麦茶のことか。

「さぁ」

老人が湯呑を差し出してくる。仕方なく受け取ることにした。

「今日は一段と暑いですな」

空を見上げて呟いた。

適温の麦湯が喉を滑り落ちる。香ばしくてほのかに甘い。体に染み込む感じだ。

「ごちそうさまでした。あの…ここはお店か何かですか?」

老人も隣に腰を下ろした。

「ただの住まいです。坂を上る前に少し休憩してもらおうと夏の間はこうやって」

蚊取り線香に麦茶に老人。老人の姿はどこか亡くした祖父を思い出させた。そのせいか心が少年時代の夏に引き戻される。


「子供の頃は」

突然口から言葉が出た。

隣の老人は遠くを見ながら頷いている。

「早く大人になりたいと思っていたんですよね…なのに」

続ける。

「大人になると子供の頃が良かったなんて」

ないものねだりですよね。

小さな呟きになる。 

今の自分に満足はしていない。でも不満だらけではない。仕事があり、体も健康だ。やや疲れ気味ではあるけれど。

足りないのは何だろう?お金?時間?地位や名誉?突き詰めて考えたことはなかった。日々に追われて精一杯だ。


「そういえば、こんな風に夕暮れを眺めるのは久しぶりです」

気づけば日が暮れかけていた。

普段ならオフィスにいる時間帯。窓の外に意識を向けることなんてなかった。

「たまには、いいものですな」

顔は見えないが、老人の声は笑っていた。 


それからしばらくして竹製のベンチを後にした。老人にお礼を言い暇を告げると目の前の坂を上る。この上のアパートに住まいがあった。

生活時間が違うにせよ、毎日通っている道なのに今まで気づかなかった。

老人にもベンチの存在にも。たまたま出逢っただけだった。なのに。

不思議と満たされていた自分に気づく。

いつもと違うひとときを過ごしただけなのに。

「麦湯、作ってみるかな」

冷たい喉越しは爽快だ。でもゆっくり染みわたる味わいも捨てがたい。 


まだまだ暑さは和らぎそうもない。


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