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鼻に詰める


「花粉でしょ」だけだった。
その一言ですべてが分かった。



ここ数日間ずっと鼻水が止まらず、何度鼻をかんでも無限に出てきます。
しかもやけにサラサラで、鼻を啜った直後にその努力を嘲笑うかのような勢いでまた垂れてくるのが非常に鬱陶しいです。せっかく5mmほど吸い上げたのにすぐさま10mmほど垂れてきます。イタチごっこです。ジリ貧です。
意外と知らない方も多いと思うのですが、呼吸っていうシステムは吸った後に吐かないといけません。これ豆知識な。
鼻を啜った後は必ず一呼吸おかないと次に啜れないんです。しかし、その一呼吸ごとに差引5mmずつ進撃を続ける鼻水を止める術は僕にはありません。人間だもの。

「さて、どうしたものか……」

メガネをクイっと上げながら対策を練ります。インテリキャラっぽくてカッコいいです。これはモテます。
でも鼻水を垂らしているので全部台無しです。前言撤回。これじゃモテません。ただの“鼻水垂らしメガネ小太りおじさん”です。あだ名が長ぇ。

何にしたってそうですが、対策を練るにはまずは原因究明を行うことが必要です。この鼻水無限地獄は何をもってして我が身を襲っているのか。これを明確にするのが一番大切なんですね。
僕くらいのインテリキャラになると考え得る可能性は湯水のように湧いて出てくるワケで。
まずは風邪の可能性ですが、これはなさそうです。何故なら被害が鼻水だけだからです。数日間その症状だけが続いており、発熱であったり喉の痛みや頭痛などは一切ありません。すき家の『にんにくファイヤー牛丼』をお昼休みに食べたときは、その辛さで午後からお腹が痛くなり大変でしたが、それはあくまでも『にんにくファイヤー牛丼』によるものなので、病気の症状としての腹痛もありません。今後はお昼休みには絶対に食べないようにしたい所存です。去年も同じ失敗をしたような気もしますが。
また、症状が鼻水だけなので例のあの感染症でもないでしょう。超陰性でしょう。


えー。
考え得る可能性、以上です。
「湯水のように湧いて出てくる」と言い切った数秒前の自分を恥じます。2つしか出てきませんでした。今ひどく赤面しています。メロスと良い勝負です。
もう原因がわかりません。迷宮入りです。

自分一人ではどうしようもなかったので、朝の出勤前に
「鼻水止まんないんだよね。なんだろね」
と嫁に意見を求めたところ、冒頭の一言が返ってきました。
なるほど。花粉か。
その可能性があったか。花粉症歴がまだまだ浅い僕は毎年ここで躓きます。自分が花粉なんぞに屈したことを忘れてしまうのです。そうだった、そうだった。僕は花粉症なんだった。嫁曰く「もうけっこう飛んでるよ」とのこと。新年早々ご苦労なこって。

原因はわかりました。
薬を飲みたいのですが先日までシーズンオフだったこともあり自宅に常備していたのはもうありません。ちゃんと探せばあるのかもしれませんが朝のバタバタする時間帯にじっくり探す時間もありません。「なんで昨晩のうちに探さなかったの!」と嫁に怒られるのも嫌です。
かと言って通勤中にも買えません。最寄り駅までの道中に薬局はなく、またそこそこ早朝なのであったとしても開店してません。

「さて、どうしたものか……」

メガネをクイっと上げながら対策を練ります。インテリキャラっぽくてカッコいいです。今度こそモテます。
でもやっぱり鼻水を垂らしているので全部台無しです。前言撤回。これじゃモテません。ただの“鼻水垂らしメガネ小太りにんにくファイヤー牛丼ドラクエウォークおじさん”です。こんなことをしている場合じゃありません。会社に遅刻しちゃいます。

やむを得ず僕はティッシュを鼻に詰めて家を出ることを決意しました。
ただでさえ締まりのない顔をしているのに、余計に間の抜けた風貌になるので本当は嫌なのですが、まぁ幸いというかなんというか外出時は常にマスクをしているので周囲にバレることはないでしょう。
嫁が心配そうな顔で「本当にそれで行くの?」と気にかけてくれています。僕の体を気遣ってくれているのでしょうか。出来た嫁です。感謝しかありません。この戦いが終わって無事に帰って来れたらそのときは伝えよう。「愛している」と。

「いってきまぁす」

僕は意を決して玄関から外界へ一歩踏み出しました。



そこから会社までドアツードアで約2時間。僕は誰にも勘付かれることなく事なきを得ました。最初こそ
「マスクの下で鼻にティッシュ詰めてるのに何食わぬ顔で外を歩いてる俺……」
という、なんとも言えない背徳感にも似た気持ちがありました。
電車に乗れば
「隣に座ってるこの女学生もまさか僕が鼻にティッシュを詰めているなどとは夢にも思うまい……」
とゾクゾクしておりました。それはまさに得も言われぬ甘美なひとときでした。
会社についてからも合間にこっそりティッシュを取り換えては、その興奮に身を委ね続けました。

「先日の御見積書についてなのですが、今少しだけお時間よろしいですか?(うわぁマスク一枚隔てたところでティッシュを鼻に詰めている僕に全然気づいてないよ…ハァハァ)

「もしもし、お忙しいところ大変恐れ入ります。〇〇様は本日ご出勤されておりますでしょうか(あなたは気づいてないだろうけど僕は今鼻にティッシュを詰めて喋っているよ…ハァハァ)

「はい、承知致しました。確認してすぐに提出致します(僕は鼻にティッシュを詰めてまーす…ハァハァ)

表向きはいち会社員として、大人のような顔と言葉で対応しておりましたが、マスクの下では鼻にティッシュを詰めるという間抜け極まりない姿で働きました。ドキドキが止まりません。自分にこんな一面があったなんて。最低です。不潔です。嗚呼、恥ずかしい。絶対に見られたくない。でもちょっと見られたいかも。でも見られたら恥ずかしい。でもどうしよう。ちょっとティッシュを詰めているシルエットがギリギリわかるかどうかって程度にマスクを押さえて話してみようか。それとも誰が通るかもわからない通路でちょっとだけマスクを外して意味もなくアイーンとかしてみようか。でも見られちゃったらどうしよう。恥ずかしい。見られたくないけど、でも見られたい気持ちもちょっとある。どうしよう。

欲望というものは底が知れません。人のSAGAというものです。僕は自らのそれに歯止めが効かなくなっていることに気づいていながらも、どんどん大胆になってきた己の行動を止めることができませんでした。そして、とうとうその瞬間が訪れたのです。

誰も見ていないだろう、そう思いながら僕は敢えて堂々とマスクを外してお茶を口に含みました。そのときです。斜向かいのデスクに座っている同じチームの先輩(女性)が僕に問いかけました。

「どうしたの?鼻にティッシュなんか詰めて」


バレた。ヤバい。

思わずお茶を吹き出しそうになりましたが、なんとか耐えました。
とうとう見られてしまった。
一通りあたふたした後に観念した僕は

「いや、なんか、なんというか、花粉のせいだと思うんですけど、鼻水が止まらなくて……」

と素直に告げました。先輩は呆れたように笑いながら

「ほら、これ飲みな」

と錠剤を僕に渡してくれました。花粉症の薬です。
有難く頂戴して30分もしないうちに一旦鼻水が止まりました。
あんなに僕を苦しめ続けた鼻水がこんなに簡単に止まるなんて。もっと早く助けを求めればよかった。そしたらあんなに馬鹿げた時間を過ごさずとも済んだのに。今となっては心底そう思うのです。
僕は鼻水地獄と共に、自分の中に芽生えていた歪んだ何かが萎んで消えていくのを確かに感じました。


戦争、疫病、花粉症。
世の中に溢れている負の感情が人を狂わせることはままあることです。自分だっていつそれに狂わされるか。我々は薄氷の上で踊らされているようなものなのです。
人は滑稽で、愚かで、そして醜い。
だからこそ人は美しく在ろうとするし、世界もまた美しく在るべきなのかもしれません。
かの哲学者、ヘミングウェイは言いました。

『この世は素晴らしい。戦う価値がある』と。



後半の部分には賛成だ。



お金は好きです。