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「講道館柔道発祥之地」

柔道だけじゃない、嘉納治五郎の偉大さ

★ジャンル【スポーツ】 
★場所 台東区東上野5-1-2
★最寄駅 東京メトロ銀座線稲荷町駅

これまでの23区発祥の地一覧

★碑文
碑付属の石柱の文
「明治十四年嘉納治五郎は東京大学を卒業 学習院に奉職したが 翌十五年二月より当寺内に居住して同寺書院を道場として学生を養柔道を中心とする訓育を始めた これが今日国際的な広がりを持つに至った唯一の国技講道館柔道の発祥である 時に治五郎は年二十三才 道場の広さは十二畳 初年の入門者は九名 当時住職は朝舜法大和尚であった」
永昌寺入口の台東区教育委員会解説文
「明治十五年(一八八二)、講道館柔道の創始者嘉納治五郎(一八六〇~一九三八)が友人や門弟とともに稽古をはじめたところが、当下谷永昌寺の書院であった。これが今日、世界各国に普及し国際的な広がりを持つ講道館柔道の発祥とされている。道場となった書院の広さは十二畳、初年の門弟は九人であった。同年夏、当時の住職朝舜法(一八三七~一九一四)の協力を得て、玄関脇の空地に、12畳のバラック建て道場を新築したが、翌十六年(一八八三)神田に移った。永昌寺は、浄土宗で永禄元年(一五五八)下谷長者町に創建、寛永十四年(一六三七)現在地に移転した。大正十二年の大震災により当時の建物は焼失している。境内の「講道館柔道発祥之地」と刻む自然石の記念碑は、昭和43年10月、嘉納治五郎没後30周年を記念し、講道館が建立した」

★解説
 嘉納治五郎(かのう じごろう)というと現代の我々は柔道家のイメージが強いですが、実際はそれ以上に教育家であり、スポーツ全般の振興を図った偉大な人物です。1860年、現在の神戸市生まれで、菊正宗や白鶴で知られる江戸時代から続く灘の酒造家、嘉納一族の出身でした。嘉納の父は神戸で廻船業を営み勝海舟と親交があったようで、維新後は東京に出て明治政府に出仕します。
 治五郎は1877年に東京大学に入り、渋沢栄一(しぶさわ えいいち)やアーネスト・フェノロサの講義も受けました。治五郎は身長が158センチと、明治人としては普通ですが、体格に恵まれていたわけではありませんでした。若年時にはひ弱だったと言われ、力に物を言わせる連中に悔しい思いをさせられた、とも言います。このため小さな者でも大きな者を倒せる柔術に関心を持ち、天神真楊流柔術の福田八之助に入門します。
 1879年には渋沢の依頼で来日中の前アメリカ大統領グラントに柔術を披露し、同年に福田が亡くなると新たな師匠に入門、さらに1881年には別流派の柔術も学びます。
 柔術とは戦国時代の合戦での組み打ちの技術から発達したもので、素手を中心に相手を倒す、または捕らえる武術でした。江戸時代はさまざまな流派があり、道場もたくさんありました。このため嘉納の講道館柔道も、当初は

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