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幕末個性派の交錯を偲ぶ/多彩な郷土食を食べ尽くしたい/宇和島市

「日本の城下町を愉しむ」一覧
  東日本編
(北海道・東北・関東甲信越)
  中日本編(北陸・東海・近畿)
  西日本編(中国・四国・九州)

★都道府県 愛媛県
★城郭 宇和島城

 宇和島は遠い。東京からだと松山空港からさらに特急で1時間半弱。本書の中でも屈指の不便な城下町だが、幕末から維新にかけて、個性的な人物たちがこの街で交錯した。
 イギリスの外交官アーネスト・サトウは、幕末から明治にかけて通算25年も日本に滞在し、西郷隆盛(さいごう たかもり)や木戸孝允(きど たかよし)、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らと交友のあった人物だ。
 彼は幕末の1866年、日本の政治情勢を探るため軍艦3隻とともに宇和島を訪れている。英軍艦がわざわざ立ち寄るに値する街だったのだ。そこでサトウは、幕末の四賢侯と呼ばれた前藩主伊達宗城(だて むねなり)と藩主の宗徳(むねえ)に会っている。
 その際宗城は、サトウが発表した外交論文について「それは読んだ」と話してサトウに感銘を与えている。時代劇での殿様イメージとは違った、確かに英邁な君主だったようだ。市街外れの等覚寺に大きな墓地がある。
 サトウは宇和島を去る際、めったにない表現で「名残惜しさでいっぱいだった」と書いている。よほど気に入ったのだろう。宗城は海に面した砲台から礼砲を撃って送った。砲台は今も残り、隣に市の歴史資料館が建つ。
 その樺崎砲台の建設には大村益次郎(おおむら ますじろう)が携わったという。大村は今の山口市生まれだが武士ではなかったが大阪の適塾で学んだ秀才で、その学識を見込んで宗城が1853年に宇和島に招いた。蘭学や兵学を藩士に教え、3年後には宗城とともに江戸に行き、そこで蘭学塾鳩居堂を作って長州の目に留まる。宗城の引きがなかったら新政府軍司令官大村は存在しなかったかもしれない。住居跡が市街外れの山麓にある。
 宇和島藩の砲台建設はこれが初めてではない。今は隣の愛南町になるが、1850年に久良砲台が築かれている。これは幕府の外交政策を批判して投獄さ

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