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創作活動をする私へ、あなたへ、見知らぬ誰かへ

 ツイッター(X)で呟いていた内容そのままなのですが、近頃、幾度となくこのようなことを考えるので、noteに書き残しておこうと思い記事を立ち上げました。少し加筆修正をしているけれど、おおむね、呟いていたことそのままです。いずれツイッターも使えなくなる日がくるかもしれないし、ちょうどいい機会だと思って。

創作活動をするあなたへ、見知らぬ誰かへ、そしてこれまでの私へ向けて。

 今、私のポメラの中には「どこにも出していない、自分でぐちゃぐちゃ考え続けて袋小路にはまってしまった、どうしようもない小説」がたくさん眠っている。気合いを入れて書いていた時期、悩みすぎて何もできなかった時期、泣きながら書いて訳がわからなくなっている時期、いろいろあるけど、これまで私の「創作活動」はネガティブな感情が大半を占めていた。
 自分が作り出したもの、創作物を自分以外の場所へ、外の世界へ出す行為は、とても勇気がいる。
 自分のことだから「勇気がいる」なんて、格好良く言っているわけじゃない。本当に、「自分の感情と熱意を乗せ続けた作品を世に出す」行為は、大変なことなのだ。すごいことなんだ。「自分の感情と熱意を乗せ続けた作品」なんて恥ずかしさの塊で、作った端から捨ててしまいたくなることだってある、それを、わざわざ他人に見せられる形にして公表している? めちゃくちゃ、すごいことだ。
 つい半年前までの私は、自分の創作に関して、やることなすことが嫌だった。
 何を書いても、自分の感情の乗った作品が恥ずかしかった。
 それは世に出してはいけないもののように思えたし、他人の貶められるように思えたし、例え世に出しても誰も喜ばない――そう、私にとって創作活動とは、誰かに喜んでもらうものとして認識されていたのだ。私の作った作品で、誰かが喜ぶ。一時の快楽を得る。読んでよかった、と思ってもらえる。そうした読者の反応こそ私の創作活動の原動力であり、求めているものなのだと、やはりつい半年前に得心した。何年、書き続けているんだと思ったけれど、案外そんなものかもしれない。

 作品を誰かに提示する、世の中に出していく行為は、本当にすごいことだ。誰もができるわけではない。見方を変えれば、己の感情を誰もが目に見える形にして世の中にさらしているのだ。恥ずかしくないわけないだろう。

 でも、それをあえてしている人々がいる。私は、本当にそんな人々が、皆さんが、すごいと思う。お世辞ではなく、卑屈でもなく、事実として。あなたはすごいことをしているんです。

 創作活動をしている方、本当に、胸を張って、誰に何を言われて、どんな批判的な意見があっても、それはあなたが作り出した作品で、あなたの描き出した世界で、だから大事にして良いのです。頑張り続けていいんです。時々休んだって、批判してきた意見に怒りの声を爆発させたって、いいんです。あなたのものなんだから。

 私は今、こういうことを毎日、一生懸命、自分に言っている。一生懸命にならなきゃ、自分に言えない。誰もこういうことは教えてくれなかったし、逆にここにくるまでの間、私にとって悪意でしかない心ないことをたくさん言われてきた。でも、それに悲しんでやめてしまわなくていい、って気づいた。
 だから、なるべく胸を張って、一生懸命言っている。できてないことばかりだけど、自分の気持ちや今の自分の力量を貶める必要はどこにもない。今、自分の目で見た自分の作品は、とてもつたないかもしれないけれど、世に認められている大作ではないかもしれないけど、それを作り出す熱意や感情の発露は否定されていいものではないのだ。誰にも、自分自身にも。

 自分より絵がうまい人、自分より文章がうまい人、確かにいます。たくさんいます。当たり前だよ。
 でも、あなたはあなた自身をゴッホと比べたことがあるでしょうか? 太宰治と比べて自分の文章が下手だと思ったことは? ほとんど、そういう人はいないんじゃないだろうか。わからないけど。でも、そういうことじゃないってことはわかってもらえると思う。
 狭い世界だけ、とりわけ、自分にとって悪意のある言葉を、気持ちを傷つけるようなものだけを見て、自分を落とさなくていい。自分の作品や作風を大事に抱えて、かわいがって良い。今はSNSやあまりにも早い情報社会のせいで、毎日毎日、自分の力のなさや、憧れると同時にねたましいと思ってしまうたくさんの作品が目に入るかもしれないけれど、それはそれだ。

 これは私の勝手な願いというか、「こういう人が少なくなるといいな」という思いなんですが、自分で自分に「才能がない」と言っている人や、「誰それと比べて下手(できていない)劣っている」と口にする人は、どうか、自分を大切にしてほしい。そんなことはない。誰かに言われたのなら、そんなものは忘れてしまったほうがいい。自分を最後に救えるのは自分だけで、自分が作る表現の世界を選んだのはあなたの意思で、その素晴らしい完成や選択した方法を、あなた自身でいじめないでほしい。
 私はこれを自分にしていて、ずいぶん遠回りをしました。自分のことは自分でしか守れないのに、その自分を自分で傷つけて、いじめて、ひどい言葉をいっぱい溜め込んで、動けなくなりました。「私は書けない」「才能がない」、こういう言葉は、あったはずの熱意や楽しさを奪っていきました。そのくせ、素敵な作品を見ると妬ましくて羨ましくて、仕方がなかった。「あんな風になりたい」と思っていた自分にも気づけていなかったんです。
 妬ましい、悔しい。そうした感情は、全部(私の場合)相手の境遇や立場や、そう考えられる思考そのものが羨ましいからでした。羨ましいと思える相手がいること、そのものが恵まれていることだと気づかず、友人を傷つけ、人を遠ざけ、謝ることもできずに来てしまいました。
 そうした私の行動、発言は全て、表現方法の範囲を飛び越えて、私から私の好きなものを奪っていきました。何をしても駄目なように感じる、と思っていたのはそのせいです。書くこと以外にも、私の場合、歴史や旅行や、楽しいと思うあらゆるもの、それらを通して誰かとコミュニケーションをとっていた楽しい時間まで、一度すべて消してしまいました。

 創作活動をする誰か、あなたへ、どうか、今はまだできなくても、今はまだつたなくても、時にはそうした現実にぶちのめされて悲しくなってしまったりするかもしれないけど、立ち止まってしまうかもしれないけど、自分で作り出すものを自分で否定しないであげてください。
 かつての私へ、ポメラの中に、小説を残しておいてくれて、ありがとう。読めたもんじゃないけど、サルベージするよ。

 あとは、こんな私の在り方に愛想をつかし、離れてしまった友人たちへ。私のことなど、もう見たくもないだろうし、関わりたくないだろうから、こんなところに書くのは本当に無駄なんだけど(見てないだろうしね)本当に我慢強く私に付き合ってくれて、ありがとう。ごめんなさい。貴方を傷つけたことは、見えない言葉という八つ当たりで殴りつけたことは許されるものではないし、私も私を許さない方がいい、と思います。常に羨ましい対象だった素敵な貴方を一人、失ったことは私の大きな損失であり、痛手ですが、それにも気づかなかった私のことを、私は忘れてはいけないと思います。

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