18. イエスは本当にメシアなのか(下)

題:イエスは本当にメシアなのか(下)

 『マルコによる福音書』では、イエスの身分について、ナレーターや登場人物によるいくつかの証言が載せられています。

神の子イエス」(マルコ1:1)
わたしの愛する子」(マルコ1:11)
「いと高き神の子イエス」(マルコ5:6)
メシアです」(マルコ8:29)
ほむべき方の子メシア」(マルコ14:61)
メシア、イスラエルの王」(マルコ15:32)

 これらの身分特定が正しいと認めるかのように、イエスは、大祭司の尋問に対し「そうです」と回答します(マルコ14:62)。その回答により、それまでイエスの正体についてモヤモヤしていた読者の気分は晴れるかもしれません。本人が認めたのだから、問題は解決だと。しかし以下でわたしは、その解決を保留にする、別の解釈をほどこしたいと思います。

■「わたしだ」
 同じ『マルコ』の中に、イエスが弟子たちによって、幽霊に間違われる場面があります。

 弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ。皆はイエスを見ておびえたのである。しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。(マルコ6:49-50)

 ここで弟子たちはイエスのことを、幽霊だと勘違いしています。それに対してイエスは、「わたしだ(エゴ・イミ)」と答えます。この答え方は、大祭司の尋問に対する、「そうです(エゴ・イミ)」と同じです(マルコ14:62)。
 たしかに、「Are you...?(ス・イ)」という問いに対して、「I am(エゴ・イミ)」と答えれば、それは単純な肯定を意味し得ます。しかし、『マルコ』の中では、これまでイエスは自分の正体に明言することをはぐらかし続けてきました。それに加えて、イエスは幽霊ではないかとの疑問に対し、イエスは「わたしだ」という言い方で、自分の正体の暗示しようとしています。このパターンを思い出せば、「そうです」を単純な肯定として捉えることが難しくなります。「お前は、メシアなのか」という問いに対して、イエスは、「(わたしは)わたしだ」と謎かけで返答している可能性があります。
 さらに、「わたしだ(エゴ・イミ)」という言い回しは、神そのものを指す、旧約『出エジプト記』3章14節「わたしはある(エゴ・イミ・ホ・オン)」をも連想させます。だとすれば、大祭司がその回答を冒涜だとして衣を引き裂いたのも、より一層納得できます(マルコ14:63)。

■謎かけ
 このように「そうです」という言い回しは、「わたしだ」という別の意味を指示する可能性があります。たしかに大祭司は、イエスの回答を、神の子か神そのものであることを認めたものとして受け止めています。しかしそれは、イエスの謎かけにまんまとはまっているからかもしれません。実はイエスは肯定していないかもしれないのです。
 大祭司の尋問の後、イエスは今度はピラトから、「お前がユダヤ人の王なのか」と問われ、「それは、あなたが言っていることです」と答えています(マルコ15:2)。イエスはやはり回答をはぐらかすのです。

まとめ
 『マルコ』全体を読み通して、次のようなことが言えると思います。イエスは、常に周囲によって何者であるかを規定されています。神の子、メシア、王、幽霊など、イエスの身元について語るのは、天の声、弟子、大祭司、総督など、外部の声です。しかしイエス本人はそのどれをも受け入れていないのです。反対にはねつけてもいません。
 では、彼は一体何者なのでしょうか。その答えが、「わたしだ」なのだと思います。わたしはわたし。『マルコ』のイエスはそれ以上でもそれ以下でもないのです。

2021/01/30
作:Bangio

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