ある富豪の話-前編

 1920年代、第一次世界大戦で疲弊したヨーロッパをしりめに、アメリカ合衆国ニューヨークのウォール街は、世界経済の中心地として活況に沸いていた。このウォール街で一旗あげようと夢見る投資家が世界中から集まり、ニューヨーク証券取引所(NYSE)を舞台に丁々発止のトレードを行っている。

 アイルランド移民のジョセフも、投資家としてウォール街に事務所を開き、株式市場で着々と財を築きつつあった。
 ジョセフはその日も商いを終えて、近くのカフェを訪れる。
「ジョセフ!ここだここだ」顔見知りの投資家が声をかけた。
「よう、今日の首尾はどうだった?」
「まあまあだ。先週買ったミネソタの鉱山株で一儲けさ。君の情報のおかげだよ」
 顔をあわせると、お互いの投資家としての実績を報告しあうのが慣わしにだ。
「それはおめでとう。ジェフ」
「いやあ、君のほうこそ儲けてるんだろ?君の名前は歴戦のつわものとしてあちこちで囁かれてるぞ」
「困ったことに、これだけ苦心惨憺してるのを誰もわかってくれないんだからね」
「ははは、言いたいやつには言わせておけばいいさ」
 しばらくこの株式相場についての議論を交わしていたが、ジョセフにはなにかしら心に引っかかるものがあった。なにかちょっとしたことなのだが、それがまだジョセフにははっきりとはわからなかった。
 カフェを後にすると、露店で新聞をいくつか買い求め帰路についた。紙面を賑わしているのは、あいかわらず株式市場の活況だ。ウォールストリートジャーナルのような経済紙ばかりでなく、ニューヨークタイムズのようなクオリティペーパーまでも、好景気に沸くニューヨーク株式取引所の写真を一面にもってきている。

 以前は、株取引をやっているのは一部の資本家だけであったのだが、第一次世界大戦の戦争債が償還されてきたため、これを得た人たちが株式市場に流れ込み、今の活況を支えている。好景気に沸く株式市場は数多くの成功者を生み出し、新たに株式市場に参入するものが後を絶たなかった。
 株式の上昇局面であったため、素人投資家であっても十分に利益を出すことができ、これがさらに素人投資家を増やす結果となったのだ。

 ジョセフの自宅。ダイニングで妻のローズと息子たちとともに食卓につく。食事の前の神への祈りは、ジョセフの役目だ。敬虔なカソリック教徒であるジョセフは、その日一日を無事に過ごせたことの感謝を神にささげる。
「願わくば、わが家族に神の御加護のあらんことを。アーメン」
「アーメン」みなが口をそろえて唱えた。
 ジョセフが最初に食事に手をつけ、みながそれに倣った。この家では家長であるジョセフが絶対的であり、彼より先に食事に手をつけることは許されていなかった。

 飢餓に苦しむアイルランドから渡ってきた祖父からの教育で、ジョセフは成功するためには競争社会を勝ち抜く必要があることを叩き込まれ、それを達成するための最善の努力を行ってきた。自分の息子たちにも教えを徹底しており、兄弟のなかでも常に学業、および運動で競い合わせていた。プールで泳がせては、誰が先に泳ぎきるかを競わせ、学業ではどれだけよい成績を残せるかを競わせた。
 自分は投資家という世界でなんとか資産を築くことができたので、この食卓を囲んでいる息子たちには、このアメリカ合衆国の双肩をになう地位に上り詰めてもらいたい。そのために、自分の築いた資産を使う覚悟はできている。

 事務所に入ると秘書から新聞を受け取り、かわりにコーヒーを頼む。
「ちょっと濃い目に豆を挽いてくれ。砂糖とミルクはいつものように」
「はい、かしこまりました」
 執務室のデスクの上に、船便で届いたファイナンシャルタイムズが置かれてあった。契約しているロイターのニュースもきれいにそろえられている。  黄色い紙面のファイナンシャルタイムスを手に取り、一面から見出しを拾い読みする。これといってめぼしい記事がなかったので、ロイターのニュースに目を通す。ロイターのニューヨーク支局でタイプされたニュースは、メッセンジャーによって毎朝届けられている。タイプライターで打ち出されたニュースをぱらぱらとめくると、気になる記事があった。
 世界大戦から復興するヨーロッパで鉄鋼の需要が拡大しているものの、供給が追いつかないという報告が出ている。鉄鋼需要のニュースを見つけたジョセフは、電話をつかんでジェフを呼び出した。
「おはよう、ロイター見たかね。ジェフ」
「やあ、おはよう。どのニュースだ?」
 ジェフはまだ気がついていないらしい。
「ロンドンの鉄鋼需要の見通しだ」
「ああ、これか。今読んでるとこだ。よし、鉄鋼株を仕掛けるか?」
「いこう。それともう一人必要だな。バージルにも声をかけてみるよ」
 ジョセフは投資家仲間の中でも相性のいいバージルをこの作戦に引き込むことを決めた。
お互い呼吸を合わせないと、作戦が不発に終わるからだ。
「バージルか、これは面白くなってきたな。じゃあ、寄りから吊り上げていくぞ。今夜はいい酒が飲めそうだな」
「いや、明日までかけて吊り上げて、明日の午後に仕切る作戦だ。ニュースが大衆に浸透するまでそのくらいかかるだろう」
「わかった。締めは明日の午後だな。抜け駆けするなよ」
「ああ、作戦の成功を祈る」
 電話をいったん切ると、今度はバージルを呼び出す。バージルは引退した銀行の元頭取だが、まだ実質的に銀行を支配している。バージルを巻き込むことで、株の吊り上げ工作は十中八九うまくいくはずだ。
「これはこれは、久しぶりだな。ジョセフ君。今朝は何の用だね?」
「呼び出したのは他でもないんですが、また一相場仕掛ける相談です。ぜひバージルさんに乗っていただいて、一儲けしていただこうと思いまして」
 この世界の先達なので、持ち上げることを忘れてはならない。
「で、ネタはなんだね?それ相応の裏がないと私は乗らんぞ」
「はい、今朝のロイターで、英国の鉄鋼需要が高いとの情報が入っています。いずれわが国の鉄鋼メーカーもこの需要に応じる商談が出てくるはずです」
「なるほど、鉄鋼株か。で、シナリオは?」
「今日と明日の午前中仕掛けます。今日の新聞で鉄鋼需要が掲載されて、われわれの仕掛けた株が上昇するのを見て、大衆が鉄鋼株に飛びついてきます。明日の朝刊でこのニュースに信憑性を持たせたところで、明日午後に仕切ります」
「よし、いいだろう。で、私と君のほかにもこの仕掛けに参加するものはいるのか?」
 うまくいった。バージルが乗ってくれれば百人力だ。
「以前、パーティーで紹介したジェフが入ります」
「おお、あのメガネの男か?奴は見込みがある。まあ君ほどではないがな」
「恐れ入ります。では、仕掛けの状況は随時電話いたしますのでよろしくお願いします」
「ジェフ君にもよろしく伝えてくれたまえ。ではこれで失礼する」
 電話を切ると、入れ替わりにジェフからの連絡が入った。成り行きと指値で買い注文を出したとのこと。電話で証券会社の担当を呼び出す。
「はい、トーマスです。今日のご注文ですね」
「ああ、トム。今日鉄鋼株を仕掛けるのつもりだ。随時注文を送るからよろしく頼む。今日は忙しくなるぞ」
「わかりました、では準備いたします」
 さきほどのジェフの注文を参考に、探りの買い注文を伝える。
 ニューヨーク株式市場が開くと同時に、ティッカーがせわしなく株価を打ち出してくる。
『$25 1/4 +17/32』
(25ドルと4分の1、前日比32分の17ドル高)
(*この時代は、ドル以下の値については2の階乗の分数を使っていた。)
 ジェフとバージル、そして私の成り行き注文で高く寄り付いたようだ。今頃は、私たちの注文伝票を持った場立ち(証券会社の取引員)が、ニューヨーク証券取引所のフロアーを走り回っているはずだ。この場立ちの様子を他の証券会社が目撃し、これを伝え聞いた証券会社の各支店で買いを誘うことになるはずだ。(*今風に言うと、買い気配ということになる)
 ティッカーが打ち鳴らす騒音が、さながら取引所の喧騒のように聞こえる。証券取引所に張り付かせた監視役からの報告を元に、高値に誘導するように指値で買い注文を出していく。折り返し約定結果と取引所の様子を聞きながら、慎重に注文を出していく。三人が交互に誘導する注文を出したおかげで、鉄鋼株が活況になってきた。ここからは、お互いの持ち株を売り買いしながら株価を吊り上げていく手はずになっている。(*この時代は、このような買占めに近い株価の誘導は規制されていなかった。もちろん現在は禁止。SEC、証券取引委員会が目を光らせている)
 昼に差し掛かるころには、株価は30ドルを突破。50万株超の商いとなり、この株が今日の出来高トップになることが確定した。我々の仕掛けに飛び乗ってくる買い注文が増えており、示し合わせて注文を控えて成り行きをしばらく観察することにした。

 秘書に頼んでおいた昼食のサンドイッチが届いたようだ。コーヒーと共に、サンドイッチを秘書が執務室に持ってきた。
 秘書は昼食を外に食べに出かけるが、ジョセフはティッカーに張り付いたままサンドイッチをむさぼる。30センチはあろうかというバケットからはみだした生ハムをつまんで食べる。あまり行儀のいい食事風景とはいえないが、市場が開いている間はニューヨーク証券取引所でも同じような食事風景が繰り広げられている。
 食事中も株価は堅調に推移しており、作戦は成功したようだ。バージルに電話をかけてみる。
「いかがですか?午前中のご感想は?」
「ああ、シナリオどおりだね。ところで今日の引け値の目標を聞いておきたいんだが」
「はい、寄り値の10ドル高の35ドルを考えております」
「なるほど。では、明日の仕切り目標も聞いておきたいが。目算はあるのかな?」
 さすがにバージルは鋭いところを突いてきた。ジョセフの頭の中では、今日の寄り付きの倍の50ドルとめぼしをつけているのだが、そこまで引き上げる自信は五分五分といったところだ。しかし、ここで弱気を見せるわけにはいかない。とっさに七分の自信を持てる額を割り出した。
「はい、45ドルが目標です。明日の寄りで3乃至5ドルのギャップアップを想定し、午前中に残り7ドルを誘導します。35ドルから28%強の上昇幅ですが、この程度の上昇ならば毎日数例発生していますので、今日の出来高からすれば達成は可能であると考えております」(*ニューヨーク証券取引所では、日本の証券市場のような値幅制限がないため、このような大幅な値動きが現実になる)
「うむ、期待しているよ。成功した暁には、パーティーを開いて祝おう。ではこれで失敬する」
「はい、では失礼いたします」

 午後、この取引がウォール街の証券会社の社員の間で話題となり、レストランなどを介して一般の投資家の間にも広まっていった。
 ティッカーの前に陣取っていたジェフは、午後になって騰勢を増した株価に思わず笑い出してしまった。まだ推計でしかないものの、70万ドルそこそこだった彼の資産は、すでに100万ドル突破が確実となった。夢にまで見たミリオネア(100万長者)に手が届いたのだ。信用取引で思い切り勝負に出たおかげで、手持ち資金を超える大幅な取引ができたおかげだ。
「まったくジョセフ様々だ。いや、これは俺自身の力かな?」
 ジョセフ宛のにメッセージをメッセンジャーボーイに託した。
『THK JOSEPH. I GOT A MIL $.』
(ジョセフに感謝。100万ドル到達)
 小一時間ほど経ったころメッセンジャーボーイが返事を持って帰ってきた。
『WE WON. WE WON. WE WON.』
(勝ったぞ。勝ったぞ。勝ったぞ。)
 続いてロイターからの入電があった。
『CLS $36 3/4』
(36ドルと4分の3で引ける)
 今日の目標を達成したところで、場が引けた。
 翌日も38ドルで寄り付き、じりじりと値を上げている。朝刊の一面で、株の高騰が伝えられ、これを読んだ大衆が一斉に買いに走ったためだ。
『英国需要をうけ、鉄鋼株急騰。受注に成功か?』
 株価は43ドルを超え、目標の45ドル到達も視野に入った。しかし、ここでジョセフたちが一気に売ってしまうと、相場を崩してしまうので、午後から目立たぬように少しずつ売っていかなければならない。
 午後、ついに株価は45ドルを突破、ジョセフたちは最初の打ち合わせどおり、手仕舞いを開始した。幸いなことに、買い手が多いため三人の売り注文で値を崩すことなく、その日の引けまでにすべての株を売り抜けることができた。
 ジョセフの元に、電話がかかってきた。
「うまくいったね、ジョセフ君」
バージルからだった。
「はい、今回の作戦も無事完了。おめでとうございます」
「早速だが、今夜うちで祝杯を挙げようと思うが、来ていただけるかな?」
「もちろん喜んで伺います」
「では、夫人同伴で午後7時に来てくれたまえ。楽しみにしているよ」
「はい、ローズと共に伺います。ではこれにて」

 セントラルパークを見下ろすペントハウスが、バージルのニューヨークでの根城だ。週末は隣のニュージャージーにある豪邸で過ごしているが、証券取引所の開いているウィークデイはこのペントハウスに出てくるのだ。
 ジョセフは妻のローズとともに正装でペントハウスを訪れた。執事に案内されて広い応接間にはいると、すでにジェフも到着していて、バージルと歓談していた。
「よお、ジョセフ遅かったな。ミセス・ローズは相変わらずお美しいですね」
「遅くなったお詫びに、ロートシルトを持参しました。」

「諸君も知ってのとおり、先月末に英国の金利が6.5%に引き上げられた。ジェシー・リバモアはわが国から資金が流出すると見てさっさと空売りにまわっているね」
「ええ、ですがまだ空売りするには時期が早いのではないかと思います。ジェシーの読みどおり、いずれ相場が崩れるのは明らかだとは思いますが」
「まあそう考えるのが妥当だろうね。問題はそれがいつやってくるのかだね」

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