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黒ネコのクロッキー⑤太った男1

 「こんにちは。誰かいますか、こんにちは。」 

 やっぱり、あれは夢だったのだろうか。いや、昨日も確かにこの部屋に来たのだ。あの黒ネコのあとをつけてこのドアの前までは来たのを覚えてはいるが、その後はまったくいけない。
 だいたい、野良ネコの尾行なんて無理な話だ。こちらに気がつけばさっと姿を隠してしまうのだから。娘に頼まれて仕方なく、ああ、ひどい汗だ。ほんの少し歩いただけなのに心臓が締め付けられるようだ。
 それにしてもあの黒ネコは、俺があとをつけているのを知っているようだった。後ろをふり返り、ふり返り、俺がついていくのを待っていた。おかしいなあ。ああ、苦しい。すごい汗だ。
 ひゃあ。ああ驚いた。意地の悪いネコだなあ。わざわざ足元に近づいてすっと向こうへ行きやがった。おや、窓からこの部屋に入ったぞ。次は白ネコか。何、俺にこのドアを開けろと言うのか。よし開けてやる。ついでに中をのぞいてやろう。
 ごめんください。こんにちは。入りますよ。何だかヒヤッとする。外は真夏の暑さなのにこの部屋の冷たさは何だ。ああ、うす気味悪い。うう、苦しい。息が苦しい。とても立っていられない。
 すみません、このソファに横にならせてください。ああ、少しは楽だ。
 何だ。どうしてこいつらは俺を見ているのだ。俺に向かって何か言っているようだ。ネコのくせに。ああ、苦しい。俺はこのまま死んでしまうのだろうか。
 保育園で娘が待っているのに。迎えに行かなくてはならないのに。先月の七夕の短冊に娘の願いごとが書いてあった。パパがご飯を食べるのをやめますように。
 ああ、俺はいつの間にかこんなに太ってしまった。肉も魚もパンも食べ過ぎた。
 女房だってこんな俺を置いてどこかに行ってしまったのに、娘は決して俺を見捨てない。保育園の園長先生から教わったらしい調子のいい歌を、かわいい声で朝に晩に俺の耳元でくり返す。だからこのところ頑張って食事を減らしていたのだ。
 だがもう手遅れなのかなぁ。ああ、目がかすんできた。このネコどもに助けを頼んでも無駄だろう。犬ならばなあ、犬は賢いから誰かを呼んでくれる。

 ネコは駄目だ。馬鹿なのだから…

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