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子ども歩きましたよ、1歳11ヶ月で。

いやー、歩いた歩いた。
やっと歩きましたよ、子ども。

1歳11ヶ月目。ぶっちゃけ、めちゃくちゃ遅かったです。

1歳6ヶ月までに90%の子どもが歩くらしいんですけど、そこから5ヶ月遅延してようやくですよ。

といっても、まだ二歩~三歩でコケてるので、正確には「歩き始めた」が正しいのかもしれないですけど。

とにかく、小さくても一歩前に進んだ。
よかったとしか言いようがないです。

なんでこんなに歩くのが遅いのかって、やっぱり自閉症スペクトラムという発達障害が邪魔してるらしいんですが、それはもう結構どうでもよくて。

なんというか、こんな小さい進歩ひとつで、大航海を終えたコロンブスみたいにホッとするんだな~と。自分で自分に驚いた。そういうキャラじゃないって。

まあ、そもそも私は最初から間違ってたのかもしれないです。子どもがうまれる前は

・子どもは歩くもの
・勝手にメシを散らかしながら食べるもの
・教えなくても喋ったり親に関心を向けるもの

そんな風に「できる」が当たり前の常識として捉えていたので。

それが歩かない、ハンカチ取らない、手づかみ食べしない、パパママ言わない、指示通らない、多動で落ち着かない、親の呼びかけフルシカト等々…

これまでの常識をブッ壊されて、心みだされて(前回の記事を参照

「これはもうダメだわ」とすべてを失ったかのように抜け殻になって。でも成長を信じるしかない、また頑張ろうと思った矢先に急に歩いてホッとして。

あー、なんだこれ。片思い中の中学生かよ。揺さぶられすぎだろ感情。

まるで感情のジェットコースターですよ。育児の大変さは覚悟してたけど、歩くか否かまで不安になる覚悟はなかったんだって。

いや、子どもを持つことがこんなに揺さぶれられるイベントだったとは…甘く見てた。正直。お金と時間さえあれば、環境は完璧オッケーだと思ってた。心持ちが甘かった。

ともあれ、今は少しだけ気持ちが楽になりました。歩いたんだよ。ついに。

ただ、油断はならないですよ。漫画や映画ならここでハッピーエンド、明るい未来に続く…みたいな感じで〆るのだろうけど、現実はきっとアップダウンを繰り返して、また鬱っぽくなったり、障がいの判定でメンタル揺さぶられたり、自閉症ならではの睡眠障害やかんしゃく、偏食、場合によっては他害・自害で私のソウルジェムが汚れていくことになるかもしれない。

でも、今は少しだけ、1%くらいは前より腹くくれた気がします。

「子どものために頑張る」という言葉の奥深さ


この一連の流れで学んだことが一つあって、それは「子どものために頑張る」という言葉が、そこまで単純なものじゃないんだなってこと。

例えば私の場合、

・子どものために頑張るぞ(生まれた直後)

・子どものために頑張らないとヤバいかも…(去年4月~5月、首すわり遅延、ハイハイできない姿を見て)

・子どものために頑張ったって意味ねえや。お金でどうにもならないもん。障がいだもん。どうにもならね。もうだめだ(最近まで)

・子どもが頑張ってるのに何やってんだ私。やらねば(歩いた今)

こんな風に、時期と状況によって「子どものために頑張る」の持つ意味がグラデーションのようにコロコロ変わった。

頑張る、頑張らないとヤバい、頑張っても無駄、頑張らねば。

こんな風に、少し角度を変えただけで、その裏にある感情は大きく変わる。この微細な動きを鋭く描写しないと、真に読者に刺さる文章は書けないんだなって、自分ごとながら思いましたね。

例えば「頑張らないとヤバい」と思ってる人に対して「頑張って」と言うのは問題ない。でも「頑張っても無駄」の絶望フェーズに入ってる人に対して「頑張って」と声をかけても響かないんですよ。

そして「頑張らねば」と絶望から奮起した人に対しては、頑張ってよりも「また一緒に頑張りましょう」のほうが刺さる。

すげー細かい話だけど、そこの理解度が高くないと、猫も杓子も発信する今の環境では生き残れないんじゃないかなーと思います。

偉そうに言ってますが、私もまだまだ出来てません。的外れなことも言ってしまうし、炎上も起こすし。

ただ、この一連の流れで、人間の持つ感情の…その言葉の裏にある『複雑な心持ち』への理解が深まった気がします。

…とまあ、最後は少しノウハウ的にまとめましたが、かなりの自分語り日記記事失礼しました。

今日から腐りモード終了して、通常運転、ガンガン文章を書いていきますので、よろしくお願いします。

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