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可哀想って言うな。①

子供の頃から、「可哀想」って言うのも、言われるのも好きじゃなかった。

テレサテンの、♪尽くして、泣き濡れて、そして、愛されて〜♪ なんて歌を聴くと虫酸が走った。
なぜ、泣くほどのしょうもない男に尽くさないといけないのだ?
そんな男に愛されて、幸せなのか?
大丈夫か?目を覚ませ。
ぐらいに思っていたが、どうやら、世間は私とは違う評価というか感覚があるらしい。だって、その手の曲が大流行りだったし、TVでも、可哀想を売りにする番組が高視聴率なのだから。

「黒リスは、そんな不幸な立場になったことがないから、その状況の人たちの気持ちが分からないのよ。」
「黒リスは冷酷だね〜。」

一緒にTVの人気お涙頂戴番組を観ていて、もらい泣きする友人達の横で、「私、全然、この人たちを可哀想だと思わない。というか、この手の番組嫌い。」と言い放つ私に向けられた言葉だ。
当時の私はめちゃめちゃトンガリガールだったので、すぐさま反撃した。

「冷酷?そうかな。でもさ、自分より不幸な人たちを観て、”ああ、自分はそれに比べて、幸せだわ。”とか胸を撫で下ろしたりする感覚もよく分からないし、そもそも、人を可哀想って思うってさ、自分よりその人を下に見ているから感じることじゃない?なんだか、そこが苦手。」

友人達は、絶句し、うんざりした顔で私を見た。

確かに、若かった私はそれなりの挫折や失敗もあり、思い通りに進んだ人生とは言い切れないが、でも、五体満足に生まれ、両親からも暴力やネグレクトされることもなく、経済的にも大金持ちではないけれど、食うには困らない身の上で、他人から同情されるまでの不幸に見舞われた経験はなかったのであろう。だから、”可哀想”と言われる方の気持ちも、言う方の気持ちも分からないと言われたら、「そうかもしれない。」としか答えようがないといえばそうだろう。

だが、私の人生にも遂に、ものすごい不幸が訪れた。
東北大震災である。地元・宮城県石巻市が地震と津波で壊滅状態となり、実家も被災した。4日間ほど家族の消息不明で、最悪、自分は、孤児(みなしご)ならぬ孤オバになってしまったかもしれない、と思ったりもした。
だが、なんとか家族全員無事と知り、”よっしゃー!破壊されたものは、また、再生すればいい。その為には必要なのは、何をおいてもお金。同情売ってでも、募金集めよう。それが私のこっちでできることだ。”と、いつもの、”泣いて何か解決するなら泣くけど、そうじゃなければ、泣く暇あったら、解決法を考えろ。”と言う自分ポリシーに則った行動を始めた。

震災から一ヶ月、様々な募金活動に勤しんだ。
そんな中、父が他界した。震災関連死と言われたらそうなるだろうか。父は重い糖尿病を患っていたから、過酷な被災生活に耐えられなかったのであろう。
石巻に帰ろうと思った。
ちゃんとした葬儀が出来なくても、父を見送りたかった。

しかし、当時、東北新幹線の運行の見通しはあやふやだし、三陸海岸線沿いを通る仙台石巻間の単線・仙石線も津波で壊滅。どうやって、石巻に戻ればいいのか、また、これから私の実家はどうなるのか?
連日ニュースで流れる津波で破壊された地元の映像を現実に見るのも怖くて、不安に押し潰されそうになっていた。

そんな状態でも、会社に毎日行っていた。
だが、女子トイレに入って、気を抜いた瞬間、”絶望”する気持ちが沸き起こったりしていた。
そんな時、偶々、居合わせた、日本人女性の同僚から、「黒リスさん、ご実家、大丈夫?」と、優しく声を掛けられた。

「大丈夫。」
と、応えながら、涙が溢れてきた。本当は、一杯一杯で、大丈夫なんかじゃなかったのだ。

その瞬間、私は、彼女に抱き締められた。
もう、ダメだった。もう、自分に嘘をついて、頑張れなかった。
私は、泣きじゃくりながら、父が死んだこと、石巻にどうやって帰ったらいいのか分からないこと、実家の宿屋が破壊され、家族全員被災し、今後の見通しが立たないことなど、今まで一人で頭の中で抱えていた解決策が見つからない不安を一気に吐き出した。

彼女は、私の頭を撫でながら、頷いて聞いてくれて、そして、言った。

「可哀想に。」と。

言われて、ハッとした。そうだ、私は可哀想なんだ。だから、泣いたって、弱音吐いたって、良いのだ。
私は、泣きじゃくりながら、そして、甘美な気持ちに酔うような感覚を感じていた。

そして、ああ、これが、「可哀想」って言われる正体か、と頭のどこかで理解した。

(続く)







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