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#11 エジプト珍道中 ホルスの逆襲

鼻息を荒くして、あるビルの前に立っている。ハヤブサの頭をもつ天空の神、ホルスのロゴを冠した敵の本丸、エジプト航空の事務所だ。

ことの顛末はこうだ。旅の中盤、拠点のカイロを離れて、エジプト中部のルクソールへ行くことにしたのだが、計画のさなかで移動日を一日早めたときに、あるトラブルが発生した。

航空会社のウェブサイトで、すでに予約した航空券の日程を変更しようとしたが、なぜかうまくいかない。こうして手間取っているうちに、刻一刻と空席が埋まってしまうことに焦りを募らせ、とりあえず先に新しい航空券を手配した。そのあとに古い航空券をキャンセルしようとしたのだが、これまたシステムの不具合なのか、なんど試みても途中までしか進めず、そのままずるずると時間がたち出発当日を迎えてしまったのだ。

残るチャンスは、カイロ国際空港に降り立ったときしかない。なんとしても代金を取り戻すのだと意気込んで、空港内の相談窓口に勢いよく飛びこむと、甲高い怒号が耳に飛びこんできた。スーツケースを握った女性と、がっしりした体格の男性スタッフが、カウンター越しに立ったまま声を荒らげている。待ち列の整理券をとったものの、二十人以上の先客がうんざりした表情で、カウンターを凝視していた。いっこうに進む気配がない。ホテルへの送迎ドライバーを外に待たせていたこともあり、私は泣く泣く退散することにした。

航空券の料金は三万円弱。このまま引き下がることはできない。エジプト入りしてから五日目の午後、旅程に少し余裕ができたので思い切って、敵の本丸に直接攻めこもうとタクシーに飛び乗った。それでたどり着いたのが、冒頭のビルの前である。

気を引き締めて入り口に近づいていくと、謎の親父が現れた。エジプト航空はそこじゃない! こっちだ! と別の場所に連れていこうとする。一瞬、注意を奪われたが、間違いない。これは罠だ。私は謎の親父をふりはらい、重いガラスの扉を開いた。あとからわかったことだが、謎の親父の正体は、チケット販売の代理店に連れこんで高額なチケットを買わせようとたくらむ客引きだった。

建物のなかには、それぞれの事情を抱えてつめかけた十人ほどが、カウンターのまわりで自分の順番を待っていた。整理券をとる。三桁の番号が書かれている。私はベンチに腰かけて気長に待つことにした。

窓口には三人のスタッフがいた。ひとりは恰幅のいい中年のおじさん、ひとりは眼鏡をかけた女、もうひとりは一番大柄で天然パーマの男だった。天パの男は一見怖そうだが、私の職場の同僚のTさんに似ていたので、初対面とは思えなかった。

二十分ほどすぎた。I’d like to cancel my flight reservation. スマホに機械翻訳させた文章を心の中で何度も唱えながら、そのときを待つ。しかし、いっこうに呼ばれる気配はない。私は窓口を流し見た。おじさんと女は対応中だが、天パの前が空いていた。動きをさりげなく見守る。すると、なんと爪の垢を掃除しているではないか! 暇なのか、さては、暇なのか! 私は天パの前に突撃し、呼吸をととのえてから先ほどの呪文を唱えた。

天パの男はこちらに一瞥をくれ、たっぷりと間をとってから、予約番号はわかりますか、と低く落ち着いた声で言った。あらかじめ印刷してきた予約票を見せると、パソコンの画面を見つめたままキーを打ちはじめ、エンターキーを強く叩くと、不穏な余韻を残しながらこう言った。公式サイトからではなく、外部サイトから予約してますね……、難しいですね……。重い空気がただよった。だが、このままでは引き下がれない。私も拙い英語で食い下がり、何度か押し問答がつづいた。すると、天パは静かに立ちあがり、ついてこいとジェスチャーをして、奥の階段を昇りはじめた。

向かった先は、二階の一番奥の部屋だった。会計管理を担当する部署らしい。ここでも同じやりとりが繰り返された。私はもう呪文を繰り返すしかすべがなく、キ!ヤ!ン!セ!ル!と言い放った。すると、お前の英語は大丈夫か、理解できているのか、と強めに反抗された。この先は恥ずかしくてあまり思いだしたくないのだが、どうやら、天パたちが「難しい」と連呼していたのは、この事務所での現金の返還のことで、予約の取り消しはすでに済んでいたらしい。ごめんなさい、お騒がせしました、と私はひたすらに謝ってそそくさとビルを飛びだした。

数日後、ルクソール行きの飛行機に乗りこむ一瞬、機内に荷物を積みこむ作業が目に入ったのだが、ゴロゴロ、ボテン! と転がり落ちたのは、つれあいの荷物だった。落ち着かない気持ちで移動しながらも到着後、無事に荷物を回収できてほっとしたのも束の間、ホテルで荷物をひろげてみると、日焼け止めのチューブの蓋が吹っ飛んで、服に土産に歯ブラシに、白いねばねばしたクリームが、鞄のそこらじゅうに飛び散っていた。

ささやかな逆襲かもしれない。

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