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大学の行き方ーひとつの例

何歳になろうが進路には迷うものです。
18歳のときに進路を考えることを放棄した私は、26歳から遅れて動き出しました。
進路に迷うどこかの誰かへ、そんな道もあるんだな、と参考になれば幸いです。


勉強するにも適齢期のようなものがあるのかもしれません。
一般的には15歳まで義務教育、そのあとだいたいの人は高校へ、その先は自由ですが約50%が日本では大学に進学しているそうです。
私が高校を卒業した18歳のときは、とくに勉強したいこともなく、大学へは行かずふらふらしていました。
20歳で正社員で就職。意外と学歴を気にするタイプの会社ではなかったので、それからも大学に行くことは考えていませんでした。

結婚、出産、産休明けに仕事に戻ると同時に残業が少ない部署へ配置換え。そのときの上司と相性が悪く、仕事が続けられなくなりました。
それまで働いた分のお金もあったし、夫も賛成し、退職を機に大学に行ってみることにしました。思いつきです。娘2歳、わたし26歳でした。

高校までは学外活動(主にバイト)が忙しく勉強できず卒業もぎりぎり、受験勉強なんてとてもできないので試験なしの社会人枠がある大学を探しました。学科は心理学。いま思えば当時、流行っていたんですよね、心理学が。
高校の成績はさんざんでしたが、幸い?公立校は成績証明を取れるのは卒業後5年まで、「成績証明は出せませんという証明」を出して合格。地元じゃ有名なお金さえ払えば誰でも入れる女子大でした。

周りはみんな18歳。勉強についていけるだろうか、と思っていたら、そのときの私はまさに勉強の適齢期だったようで、おもしろいくらいスルスルと勉強したことが頭に入っていきました。自分の脳が乾いたスポンジみたいだなと本当に思いました。笑
子育てと働いた経験があったからか、学ぶ内容のすべてがおもしろく、もっともっと勉強したいと思いました。いま思えば、学ぶ内容のひとつひとつが実体験に結びついて、それまで無造作に私の中に詰め込まれていた学びや経験に名前がつき、脳内で整理されたのかもしれません。

大学の間、娘は2~6歳でしたが、子育てと大学の両立は、満員電車で会社に通って、保育園に朝も夕も自転車でかけこんでいた日々よりはずっと楽だと思ってました。ちなみに若くてエネルギーもあったのか、じつは同じ時期に和裁教室にも通っていました(着物熱が高じて)。あとバイオリンも始めていました。子育てしながら大学生というだけで驚かれることが多かったので、それぞれの場所では子育て中ということしか言ってませんでした。笑

大学3年、勉強もおもしろいし、私は大学院まで進学して研究してみたいなと考えていました。
心理学科からだと、臨床心理士の資格を取るための指定の院に進むことが多く、私もそこかな~と。
3年生からはじまるゼミは、臨床心理を視野に家族心理学を選びました。

院受験は大学と同じ敷地内にあった付属の院を受けるつもりでしたが、大学入学以来ずっと成績が一番だった私は「もしかしたら私は頭がよいのかもしれない」と思っていました。(単に大学のレベルが低かった)(院で現実を知る)
大学3年の夏休み、その勘違いによる謎の自信もあり、それまでだったら考えもしないような国公立大学の院のオープンキャンパスにいくつか行ってみました。

そのうちのひとつの研究室の先生と知り合い、連絡を取っているうちに「うちの研究の一部を卒論でやってみないか」というお誘いを受けました。

そこは臨床心理学ではなく認知神経心理学の研究室でした。
そのころ進路を臨床心理にしようと思っていたものの、実験心理学や認知心理学の授業を取るうちに、そっちのほうが好きだなと思っていました。同時に臨床心理の重さや難しさも感じていて、進路を考え直すいい機会になりました。

かなり悩みましたが、結局、卒論はその別の大学の先生に誘われた内容にしようと思いました。
それをゼミの先生に言ったところ「じゃあここではできないから他の先生を探してね」とキックアウト。
え! そういうもんなのか!! とびっくりの私。

それからデータ解析が得意そうな先生たちの部屋を回るも、私がやろうとしていた解析手法も解析ソフトもどの先生も扱えない、とのことですべて断られてしまいました。
卒論もゼミも必修なので、先生が見つからなければ単位がもらえず卒業できません。ピンチ。

ほかの先生と話す中で「他学科から心理学科に来たばかりのN先生が精神科医だから少し近いかもしれないから聞いてみたら」と言われました。
N先生はまだ心理学科内では授業もゼミも持っていなくて面識もなかったけど、さっそく会いに行ってみました。事情を説明すると、その他大の先生と脳神経系の学会で一緒になったことがあるというつながりが! 私の卒論指導を引き受けてくれることになりました。
しかしメインの卒論指導は他大の先生で、どうしてそんな越境ができたのか、いまとなってはよくわかりません。ラッキーだったのでしょうか。

イチから受験勉強をし直し、院試をパス。進路変更して大学院に進んだのでした。
国立大学の院には大学受験の段階から厳しい競争に勝ってきた基礎学力のある学生ばかりで、そこで自分の実力を知ったわけです。
しかし意外と社会経験が足りない学力を補ってくれて、私は博士課程まで進みました。

結局、途中で起きた震災により博士課程を中退し、なんでか今カナダで働いています。大学院で勉強した経験は、カナダでの英語力不足を埋める大きな助けになっています。

過去のすべての経験が、間接的にいつでも未来で役に立つもんだな、ムダなことなんてないな、と思う日々です。

突然の自分語りでした。ではさようなら。

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