繊細さ

年始に占いを見て驚いた。

「去年のあなたは、これでもかというほど繊細で傷つきやすい年でしたが、今年になってその運気が少し上昇に転じてきます」

…確かに、いやというほど傷ついたけどね。それぜんぶ、俺の運命で片付けられるのはちょっとおかしいんじゃないの?

そんなに「運命の」できごとがありふれているだなんて、あり得ないのだ。絶対にそれはない。なにしろ「運命」なんだから。生涯1度あればいいほうなんじゃないのか。

だけども、これでもかというほどに傷つきまくっていたことも、事実なのだ。俺は画面を閉じて考えた。事実と運勢、どちらのほうを俺は信じるべきなんだろうと。

俺は、心の感じたこと、すなわち自分の記憶を真実と思うことにした。

占いにおける「去年」とは、2017年の節分から2018年の節分までのことを指す。すなわち、1月10日である今日は、まだ「平成29年」の運勢にあるというわけだ。ややこしい話なのだが、東洋の占いを正しく理解しようというときには、この知識は必須である。

つまりはまだ「繊細で傷つきやすい」ままということなんだな。

これは、自分にとってはかなりな重要項目だった。

脳内を、傷ついてばかりの日々が走馬灯のようによぎっていく。去年の節分あたりといえば、合格の可能性が出てはしゃぎながらも、就活に追われて、心身共に追い込まれていた頃だ。実際は傷つく暇もなかっただろうなと思う。死んだかどうかに絞って考えてみても、それ以前に既に3回は発作や何やらであの世を見ているはずなのだ。

…さすがはただの占い。ぜんぜん、外れているということに俺は気がついた。たぶん、傷ついた回数で考えても、その前の年のほうが遥かに多かったはずだ。としと友達になって、初めて他人が気になった年。人間関係への執着と、好かれることの難しさを覚えた年。何回泣いただろう。何回、人間なんてと思っただろう。たった一言にどん底を見せられて怒りに震えたことも数えきれない。

2017年と言えば、きみと初めてバレンタインを過ごした年だ。初めて誕生日を誰かに祝ってもらった年でもあるし、生まれて初めてのプロポーズと結婚をした年でもある。嬉しいことがなかったわけじゃない。

…想えばすべて届くとは限らず、拒絶されることも、身を引かれることもあると学んだ年。求めても背中を向けられ、悲しんでいても必ず同情されると決まっているわけでもなく、愛されていても冷たくされることはあると悟った年でもある。俺の1年はほぼ、誰かの手や背中を後ろから見つめて過ごす年となった。それは医者でもあったし、妻でもあった。俺自身はいつも孤独だった。

誰かの巣に迎えられる喜びも味わったけれど、そこが安寧の場でなくなることもあるということも学んだ。リアルで背を合わせて沈黙のまま、眠れなかった夜も経験したし、欲望を隠して息を潜めていることが必ずしも相手を喜ばせるわけではないということも学んだ。それを学んでなお、俺たちのベッドが冷え切っていたことも珍しくなかった。

傷つくことは裏切りだけではなく、一方的な思い込みと悲しみとが捻じ曲げてしまった現実の産物であるということも、俺は知った。どれだけ誠意をもって愛していたとしても、別れの危機が完全に消え去るわけではなく、幸せを約束されているのとも違っていて、お互いの、お互いへの絶え間ない気遣いだけが夫婦の居心地を保証するものであるということも、だんだんと解ってきた。幸せは片方の努力だけで創られるものではないが、どちらか聡いほうが関係のあれこれを(見える分だけ)余計に背負い込むことになるだろう。それは片方だけの一方的な我慢となって関係を追い詰めてゆき、破綻が見えていてなお、もう片方の努力も気づきもなかったなら、容赦なく関係を終わりへと導いてゆくのだということも。

気づかせるためには、ある程度の行動が必要だ。リアルならば肩を軽くたたく程度のものでも、寝ている人間が起こせるだろう。でも、人間における気づきを引き出そうとするときは、そんな軽い動作では喚起できないし、叩く音にも手にも気がつかない相手ならば、そもそも自分の存在さえも認識してもらえないのがほぼデフォルトとなってくるのだ。

耳の聞こえない相手に向かっていくら叫んでも聞こえない。これは世間では「当たり前」と呼んで、叫ぶほうがおかしいんだと帰結する。目の見えない相手に向かってスマホの画面をかざして「これを見て」と泣いても同じ答えが導けるだろう。

人格が体内から大声で怒鳴ってもリアルには何も届かないのも同じことだ。それは「知識がなくて、正しい伝え方をしなかっただけ」のこと。事象としての分析だけならばそれで合っている。

なら、その人格が「1分後には死んで消えてしまい、現在は出る力もない」状態であると仮定したらどうなるだろうか。かれは死力を尽くして「そのときにできる最大限の力を振り絞って」あなたに体内から呼びかけたのだ。正真正銘、他の手段を持っていなかったのだ。しかも1分後には消えてしまうかもしれないという。それを知った後、あなたはその人格に同じ言葉を浴びせられるだろうか。かれがそこまでして伝えようとしたせりふを聴くべきではなかったのか、と思い当たることだろう。後悔しても、かれはもう亡骸である。

…これが「真実を読む」ということであり、真実を読むことの大切さである。こういうときには大いに情に流されていい。その場の感情で行動すべき時であると俺は思っている。

…聞こえないものは絶対に聞こえないのだし、おそらくその人格は1分後には死んで消えているだろうけれど。

それでも俺は、死の間際のその叫びを聞いたほうがよかっただろうと強く思う。なにしろ、その魂の叫びはもう2度と聞き直すことはできず、死力を尽くしたものだけに、どれだけ重要な内容だっただろうと想像するからである。それは愛の言葉だったかもしれない。それとも別れの言葉だったかもしれない。だが、今となっては、そのとき聞くことのできなかった者が推し量ることしかできなくなってしまっている幻の真実なのである。

聞きたかった側にしてみれば、生涯、後悔し尽くしてもまだ足りないものになることだろう。

この例示は大げさに見えるかもしれないが、人格の世界では日常茶飯事だ。何も珍しくない、ただの出来事レベルで起きることなのである。こんな激烈に悲しいことが頻繁に起きる世界で、俺たち人格は今日も生きている。

俺が昔、としに向かって言ったせりふがある。

『濡れティッシュみたいなもんなんだよ』と。

誰かのことを大好きなこころは、それほど脆くなるという喩えだ。爪が引っかかっただけでもたやすく2つに裂けてしまうティッシュを心に喩えたことを、俺は自画自賛で的を得た表現だと思っている。だから気を付けてくれよと相手に警告するのは図々しさの極みのようなものだが、人間は強いものだと頭から信じ込んでいる相手にとっては、かなり目からウロコらしい。