インタビュー

「…それで、この『二エス』の乳液をもう4年くらい使っているんです」

画鋲の穴一つない生クリームをバターナイフで塗りたくったような(左官仕上げと呼ぶらしい)白の壁と、みたらし団子のタレような、少し透明感のある照り照りしたフローリング。家具は机と椅子と、あとはでっかいネギを鉢植えに突っ込んだような大きな観葉植物だけ。おっと、ちなみに照明は細い針金で吊るされた複数の不定形なシルエットの電球が白く光っているため、綿菓子が浮いている、とたとえてみる。

稚拙な表現で恐縮だが、私は、この空間の感想を食べ物に例えざるを得ないくらい、お腹が空いていた、というわけではない。

「藤代さんはモデルを始めてもう何年ですか?」

私は目の前に座る女性に尋ねた。藤代さんは、クセ一つない黒髪のストレートロングの毛先を少し揺らした。服装は、この部屋を擬人化にしたようなシンプルなもので、真っ白なシャツワンピースに、ベージュのパンツを合わせたものだった。対する私は、季節外れにも程があるくらいの、深い紅の花柄ワンピースに、黒のパンスト(スカートで見えないが、太もも辺りが伝線している)という出で立ち。比較的過ごしやすい季節だったが、どうしても下半身の冷えは避けられない。同じワンピースなのに、えらい違いだった。

「モデルだけならもう7年経ちますね」藤代さんは可愛らしく首を傾ける。「最近だとモデルだけでなく、文章を書いたり、ちょっとしたお芝居も」

「役者さんもされているんですね」私はこっそりワンピースの上から太ももを摩った。布越しに触れる素肌がなんだかかゆくなってきたのだ。隣にいる牧くんにちらっと見られた気がした。

「ええ。後は舞台の脚本も書かせてもらってます」

「え、脚本も?」今度は牧くんが質問する番だ。その目は好奇心でキラキラしている。純粋な心の持ち主にしか出せないビームのような煌めき。藤代さんは少し顔を赤らめて首を振った。

「そんな…小さな舞台なんですよ。役者の卵たちが集まった演劇集団に所属していて。ほんと、大したことないんです」

上記のような返答を、私がもし、牧くんと同じ質問をしても返してくれるだろうか。いや、おそらく違うニュアンスで言うんだろうな。私は牧くんみたいに純粋じゃないから、だってほら、仕事中に伝線したパンストに思いを馳せているので。いつだって、女は自分のことしか考えていない。

男性も勿論、自分のことばっかりだけど、考えるレベルが女のそれとは違う。

私はだって、パンストのことだけでなくてヒールの靴擦れで朝から調子が悪いし、さっきお昼に食べたサンドウィッチの玉ねぎがものすごく辛くて臭くて(水にさらすのが甘かったんだろう)、そのせいで口の中の不快指数がマックス値だ。もう、イライラしているんですよ。

もしも、藤代さんと私しかいなかったら、相手も時間が経つにつれ、自分の中の不快指数を静かに上げていくだろう。牧くん、君はいい仕事をしているよ。大学内で発行のカルチャー誌のインタビューで特集を任されて、しっかり結果を出せば、少し先の進路に明るい光が灯るに違いない、と仮定しているね。君は、藤代さんのことを知りたいんじゃなくて、藤代さんのことを知ろうとしたことを踏み台にして、自分の将来に近づく努力を果たしているだけなんだよね。

どうせ何も分かっていないんでしょ、この人のこと。



「片桐さん」

私はテーブルから顔を上げる。

「そっちの席よりも、向こうの窓際の方優先だよね?」

甘ったるいトーンのやさしい口調にアンバランスした、目尻の皺の深さと、引きつった笑顔の「いつキレてもおかしくはありませんよ」のサイン。

立山さんが布巾を握った手で、窓際を指した。

ああ~気づかなかった、すみません。と言おうとすると、立山さんが顔を近づけてくる。

「片桐さんは、すっごく仕事が丁寧で、いつも見ているの。みんなすごいって。…でも、もう少し、周りを見て欲しいなって、ときどき思うのね?」

「いつも」見ているの。
「みんな」すごいって。

小さなコミュニティ。
太陽暦の中に埋もれる極僅かな時間。

今の私は、この世界で耳にする「みんな」も「いつも」のことをよく分かっていない。


「片桐さん」

私が顔を上げると、彼が微笑んで手を振っている。

「大学の事務もこなしながら、校内のカフェでも…忙しいですね」

「そんなことないですよ。こう見えて休憩中です」

机に広げていた筆記用具や書類をまとめようとすると、彼が手を横に振って制した。

「ここに来る用事があっただけです。お構いなく」

「…そうですか」

「今の格好もそうだけど、先日のインタビューの時と雰囲気が違いますよね」

私は首を傾げる。「雰囲気?」

「なんというか今は、こう…思いつかないんですけど。良い意味で、俗っぽいというか」

「え?」私はぽかんと口を開けてしまった。

「あ!やっぱり違います。訂正です」彼は慌てて制する。「その…親しみやすい…そうそう、親しみやすい。羨ましいなって意味を込めて」

私はさっきから彼の思惑が読み取れず、今この瞬間、自分の顔に油性ペンで『困っています』と書いている自分を想像した。そんな私をよそに、彼は続ける。

「僕、片桐さんが羨ましいんです」彼は少しはにかみながら呟く。「僕は、何もかも中途半端で足元が覚束ないし、モデルも役者も…作品や結果じゃなくて、そういう活動をやっている事実を周りに伝えているだけ…片桐さんは、学生さんの相談にも乗るし、教授さんとのやり取りもあるし、カフェの運営も手伝ってて…それに」

藤代さんは、そう一気にまくしたててから、次の言葉を紡ごうと、少し息を吸い込んだ。

「藤代さん」

「へ?」

「牧くん来ましたよ」

藤代さんの肩越しから、牧くんが息を切らしながら走ってくる。

「すみませんっ。ゼミなかなか抜けられなくて。僕が呼んだのに遅くなってしまいました」

牧くんは肩に下げた鞄から、ファイルを取り出す。「あの、先日のインタビューの原稿が完成したので、ぜひ見てもらえれば…それと、わざわざ直接お会いするのをお願いしたのは、実はページを多くしてもらったのでぜひ、追加でお話を伺いたくて」

振り返った藤代さんの、牧くんに向けた表情に思いを馳せながら、私は席を立った。

俗っぽい、ですかあ。


「いつから、彼女が男性だと?」

深夜のファミレス。Mさんはコップの淵を人差し指で擦っている。

「最初から」

「ふうん…その彼…牧くん?は気づいていなかったの?」

「みたいですね。なんか、藤代さんもカミングアウトしなかったし」

そんな話をするために、貴方に会いに来たわけじゃないのになぁ。

「そういえば、Kさんは、今も何か勉強されているのですか?」興味がなくなったのか、Mさんが話題を変えてきた。相変わらずコップの淵を擦るのはやめてくれないけれど。ていうか、こっち見ろや。

「まぁ一応…資格取得で。転職するときに、便利かなって」

「それですよ」

「え?」

「俗っぽい」

「え」

「さっき、そう彼に言われたって」

藤代さんの笑顔が脳裏に浮かび始める。色は白かったが、男性特有の油性肌を白粉で厚塗りしていたからだ。唇はペンシルで縁取られてたからすぐには気づかなかったが、よく見ると色素の悪い薄い唇だった。取材中、なるべく机に手を置かないように、ずっと膝の上に乗せていたのは、骨ばった首筋と手元はどうしても、どうもならなかったからだ。

目の前のMさんの顔を改めて見ると、勿論すっぴんの藤代さんと似ているはずもないが、男性特有の特徴を持っていることから、やっぱり藤代さんは男の人なんだよなぁ、と思ってしまう。

「…小さいとき」気づいたら私はポツリと呟いていた。

「学校のみんなから、『なんでもコツコツ努力する子だね』って言われてきました。当時は褒め言葉だと思ってたけど、今思えば、コツコツ、というよりも、ちびちびやってたなって思うんです」

面倒くさくても、面白くなくても、とりあえず何かをやっていれば、何にでもなれると思っていた。

だからこそ、何者にもなれなかったのだ。

なんにでもなれる。けれど、そう思ってばかりいては結局、何者にもなれない。

そんな風にして、何者かになりたくて、不明慮な未来のために何かをちびちびと続けている私は、確かに俗っぽいのかもしれない。

「あーあ」

私はソファにもたれて天井を仰ぎ見る。しばらく沈黙が続いたが、Mさんがうぉっ、と声を上げたので視線を戻した。

「え、何ですか?」

「これ」Mさんは子どもみたいな笑顔でメニューを指差した。「マンゴーフェア。季節限定3段パンケーキですって」

…あっそ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?