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#64 朝日記 「多様性がある社会に、多様性のある個人は不要説」「間違いは、許し合うための糸口」「何度でも、待ち合わせしよう」 (2021/04/24)

7:25起床。2時間52分/7時間50分。良好です。ワインバーでアルバイトしていた時の接客語だった。良好です。

今日は、午後イチで大学院の説明会に参加してみようと思う。学び直しの準備その1である。その2、その3があるかと言われれば、まだない。大学院は手段ではあるが目的は学び直し、専門性の箔付けである。あと、対外的に役に立ちそうなのは、最終学歴の上書きである。結局、略歴がものいう社会であることには違いない。楽しみである。

今朝、ふと思ったことがある。多様性とは、全体で見た時に表す語彙であると思う。では、全体で多様性を表すとき、個々で見たらどうなっているのか。つまり、マクロで多様性が認められる場合、ミクロでは何が起こっているのか?

私の考えは、マクロで多様性が認められるために、「ミクロでは(個人レベルでは)、多様性を持っていないくていい」というのが仮説というか提案だ。満遍ない状態を一人一人に持たせた社会というのは逆に画一的になる気がしている。現在の平均志向教育では、多様性が生まれない気がしている。では、どの様になれば、全体として多様か。それは、個人が偏って生きていることではないかではないかと思う。個人がそれぞれの方向、好みの方向に偏っていて、全体でみると満遍ではなく、万偏(大量にいろんな方向に偏っている状態)になっている状態が健全な多様性の状態でないかと思う。

多様性を認めるということと、多様性であるという状態は、異なる次元にあると思う。多様性を認めるというのは、個人の許し、許容範囲のことを指している。多様性であるのは、こことして偏っているのに、なぜか一体となって社会を成している状況を示すのかなと。

最近、YouTubeで、アーティストのYUKIのインタビュー動画にてこう語っていた。

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