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『コーダ あいのうた』のこと

昨日見たコーダという映画がとてもよかった。
聾唖の漁師の家に生まれた健聴の娘。家族の耳を彼女一人が賄ってきた。家族は自分を頼りにしすぎていて、自分を犠牲にすることに違和感を感じながらも、支えている。
家族が聾唖で馬鹿にされたりすることもあり、それとの戦いでもあった。彼女は孤独で自分に自信を持てない。
そんな彼女には愛するものがあった。歌だ。だけどその彼女の歌がどれほど美しいのか家族のだれも知ることが出来ない。劇中ずっと彼女の孤独や不自由さに同情していた。彼女一人が背負うべきでないものを、彼女は背負わざるをえない。それを投げ捨てるのは、家族を投げ捨てるかのような行為に感じられるからだ。
行政の介入で家族は健聴者を乗せずに舟を運航できなくなる。通訳を雇う余裕はない。彼女には才能と夢があった。音楽の道だ。家族は彼女を手放せない。
ひどいじゃないか。世界のどこにでも行ける女の子だぞ。なんで自由にさせてやらないんだ。そう思っていた。
彼女がコンサートで歌うシーンでなんの迷いもなく、その美しい歌をもっと聞きたいと思った。体中が彼女の歌を求めていた。その時劇中の音が消えた。自分がなんて恥ずかしいんだろうと思った。誰も想像することが出来ないほどの孤独の中に彼女の家族はずっといた。まるで世界から隠されるように。
コンサートから帰って、父親が娘の喉に手を当てて彼女に歌わせるシーンがその、喉の振動が手に伝わるように、温かくて、切なかった。初めて父親が聞いた彼女の歌声。
ずっと一緒にいるからこそ私たちはわかり合えない。みることが出来なくなってしまう。存在が当たり前すぎてよく見ることが出来なくなってしまう。でも人はずっと同じなわけない。みんな孤独や老いや、変わっていく世界で、傷ついたり、どうにかよりよく生きようと少しずつ変わっていく。
その変わっていくことで出来てしまった溝に私たちは足をとられて、すりむいた足をさすりながら、どうしてこんなところに穴が空いているんだとうろたえてしまう。溝にはやがて海が流れ込んで、片割れは遠く離れて島になる。離れることが愛してないことじゃない。家族でありながら、元来それぞれなのだ。
叫ぶようなアイラブユーの手話が今も耳に残っている。

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