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リーゼント教官

花粉の季節になると自動車教習所を思い出す。
高校を卒業して、短大に入るまでの一か月の間に自動車教習所に通っていた。僕の教習の時は必ず同じ教官の人がついてくれた。四〇代のひょろっと細いおじさん教官で、小さなリーゼントを頭にのっけていた。リーゼントをのっけているので、怖い人なのかと思ったが教官はいつでも風にそよぐシロツメクサくらい優しかった。緊張してこちらが焦って確認を怠ったりしてしまっても
「大丈夫ですよ、落ち着いていきましょう」
と常に優しい声で話してくれた。重度の花粉症で常にマスクをしていて
「何年かしたら花粉症のいい薬が出るって話を何年も待っています。未来に期待です」
と笑いながらいつも鼻を鳴らしていた。

親の運転する車には毎日のように乗っていたが、いざ自分が運転するとなると極度に緊張してしまった。ハンドルを握る手が汗でびっしょりになり、道端で見てるときには勉強しなくてもわかるような交通ルールがわからなくなる。生来の怖がりも手伝って、制限速度の何キロも遅いスピードでトロトロ走ったりしていた。最初はちゃんとしなきゃと思って頑張っていたが、だんだんそれでも、まあ大丈夫なんじゃないかと思ってしまっていたのかもしれない。リーゼント教官はそんな僕を、
「山下さん、ここはもっとスピード出してみましょうか。ここは左を確認です」といつまでたっても要領を得ない僕をズビズビ言わせながら諭してくれた。
リーゼントでも優しい人はいるんだなと思っていた当時の僕はどこかでその優しさに甘えてしまっていた。

ある日、またノロノロと走る僕を助手席の教官ブレーキでとどめた教官はつよい口調で、
「降りろ!そんなんじゃ事故を起こすぞ!運転を見せてやる!」
と啖呵をきった。
驚いた僕は急いで降りて言われるがまま助手席でシートベルトを締める。
リーゼント教官は運転席に乗り込むと、いままでの柔和な雰囲気は微塵も感じさせず、
「まず乗ったら左右確認!あんまり遅く走ってっと事故起こすぞ!車道ではちゃんとスピードを出す!左折するときは左のサイドミラー確認と目視でも確認!踏切は一時停止て窓を開けて警告音確認!」と動作一つずつを声に出しながら熟練の板前が魚をさばいていくように切れのいい運転裁きをして教習所を一周してみせた。いまになっても、あんなに無駄なく綺麗できびきびとした運転をする人の車に乗ったのはあのリーゼント教官以外にいない。運転のプロだった。
出会ってからずっと下がっていたはずの目尻は切れ上がり、リーゼントは久しぶりに水を与えられた植物みたいに潤いと張りを取り戻していた。
でも、怖い人だとはやっぱり思わなかった。もしかしたら昔はそのリーゼントを振り回していた時期もあったかもしれない。広島だし。しかし、そんなことより運転が好きで、どうだ美しいだろ俺の運転は!運転ってのはこうなんだ!という心の声が見えるようだったし、初めて聞いた大きな声もやっぱりどこか、あえてそう振舞っているという恥じらいみたいなものも感じられた。

運転席から降りてきたリーゼント教官はまたいつもの下がり目じりに戻っていて、
「厳しいようですが、運転は本当に危ないですから。気を付けてほしいと思いました」と言った。
おかげでどうにか春が終わる前に実技試験に合格することができた。もうたぶん二度とこの教習所にくることもないし、彼に会うこともないだろう。最後の日に教習所の受付カウンターにいたリーゼント教官にお礼を言いにいった。
下がり目じりで微笑みながら、
「がんばってください」
とリーゼントを小さくゆらした。

最近の花粉症の薬は良く効くものが出ているけどリーゼント教官は今も花粉症に困っているだろうか。体に合うものに巡り合っていてほしい。

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