見出し画像

無駄なことについて

僕の父親は山から落っこちて死んでしまいました。父を谷底から救出するために救助隊のヘリが出動してくれて僕はネット経由のニュースで吊り上げられる父が入っているであろうオレンジの袋と、どこかに着地したヘリの窓から懸命な心臓マッサージをする隊員の方の上下するヘルメットを見ました。

その救助による金銭の請求は一切ありませんでした。捜索が難航していたら一日何百万と言う単位のお金がかかっただろうと言われました。

「山に登ることが人にとって必要か」と言われれば必要はないと思います。
僕も山に登ることはほとんどありません。父の命日に高尾山に行ってみるくらいです。
山に登ることは嫌いだった時期だってありました。

小学生のころせっかくの休みの日にゲームでもしてゴロゴロしたりしたかったのに朝4時にたたき起こされて眠い目をこすりながら車に乗せられ、何時間もかけて山に登らされました。でも頂上につく頃には遠い山並み、おもちゃのように小さな街、近い雲やどこまでも続く空、なにより普段は食べられないカップヌードルシーチキンがとてつもなくおいしく感じられました。

父は山を愛していて、それこそ家庭を顧みないほどに暇さえあれば山に登っていました。
会社を休み、家族をおいてけぼりにし何百万もかけて時には凍傷になって小指をなくし、時には雪崩に巻きこまれそうになりながらも頂をいつも目指していました。
「死んだらエベレストに灰をまいてくれ」そう笑いながらいう彼の本心はエベレストに登れるなら死んでもいいとどこかで思ってるのかもなと子供心に感じていました。

救助隊の方だって命を落とすこともあるし、ヘリだって多分その出動にかかるお金は税金から出ていたんだろうと思います。

迷惑なことだ。

でも一方で山のない人生が彼にとって意味があったかというとなかったかもなとも思います。

僕は演劇をつくっていて「演劇なんて社会に必要か?」と言われたことはないけど、言われているも同然の社会状況を感じながらいつも父のことを思いだします。

そもそも人が生きてることに意味があんのかとかも思いますが、「人が生きる=社会」ということを前提にするなら、ただ生きるだけならインフラや病院、食べるもの安全な水、仕事とかがあれば生きていくことはできる。

文化や芸術を守ることの意義みたいな大きなことではなく雪が降ってるからわざわざ一緒に散歩に行ったり、誰かと一緒に行った旅行のフェリーの券をいつまでも財布にいれておくことの意義みたいなことってあるんじゃないかな。

別にみんなも僕の父にとっての「山」みたいなものに登って死んだほうがいいとは全く思わないけど、演劇だけでなく、写真や映画や絵や音楽やアイドルだったりお笑いだったり山だったり、とにかくなんでも生きることと直接関係ないようなことにも。別の側面の生きることと大きなつながりはあるんじゃないだろうか。

遺品の財布の中には僕と弟の幼い頃のどこかの山に登ったときの写真が出てきました。
そのとき初めて彼の人生に山と同じくらい大切にしまってあるものもあるんだなと思いました。

なんだかまとまらないけどこの状況の中、演劇をつくることの難しさに批判があることも理解した上で対策をとりながら僕は演劇をつくります。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?