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イチカワ先生か、バチカワ先生か

 小学三年生くらいの頃、林くんという男の子と仲が良かった。校内を手を繋いで歩くほどのべったりさだった。
 小川のようなサラサラな栗色の髪の毛を揺らし、赤いほっぺでよく笑う可愛いらしい男の子だった。サッカー少年で広島に住んでいるのにジャイアンツファン。クラスに他にも彼と仲のいい子はいたと思う。なのに、どうして彼が僕とあんなに一緒にいてくれたのかはよくわからない。とにかく彼とはずっと一緒にいた。
 ある日の放課後、僕たちは二人で学校のすぐ裏の公園で木に登って遊んでいた。木は根元はまるでここから登れと言わんばかりにでこぼこしていた。登ってゆくと途中で二手にわかれ段々と枝も細くなってゆく。降りる時のことなんて考えない。ただ上へ上へ、先へ先へと進んでいく。結果僕たちは木から降りられなくなった。多分、五メートルくらいはあったと思う。たまにニュースで猫が降りられなくなってるのとまったく同じ感じだった。それでも幹につかまって服を表皮にこすりつけながら無理くり降りることは出来そうだった。ただ林君はそのゼリーを掬いあげたように光を跳ね返す瞳で、
「もう飛ぶしかない!」と僕を見つめた。
いやいや、危ないよ。やめようよ。と言ったか言わなかったか覚えてないけど、とどめようとはしたと思う。
 その当時僕たちの隣のクラスに市川という名前の先生がいた。何の先生だったかは忘れてしまった。特別優しくふるまうわけでもないけど、生徒から好かれているベテランの先生だった。
 林君は木の幹をつかんだまま、体重を前のめりに爪先に預け、今にも飛び降りようとしながら、また僕をみて
「イチカワ先生かバチカワ先生か飛んでみる!」
 とさわやかにつまらない冗談のような決意を述べて飛び降りてしまった。多分飛び降りることが僕たちにとっての冒険だったし、かっこよさだったのだ。
 ところで、死なない程度の高いところから飛び降りたり、ボールを強めにぶつけられたりしたことはあるでしょうか?強めの衝撃を受けると人は息が止まる。意識ははっきりしているし、喉に何か詰まっているわけでもないのに息が全く吸うことも吐くことも出来なくなる。
 林君は完全にその状態になっていた。サラサラの髪を地面にうずめて顔を真っ白にして何とか息を吸おうと「ウッウッ」と変な音を出していた。急いで幹を滑り降り、林君の背中をさする。大丈夫か。死ぬんじゃない。林君林君。気がつくとなぜか僕は笑いが止まらなくなっていた。これはヤバいかもしれないなと頭ではわかっているのに、こらえきれない。見ると林君も息も絶え絶え笑っている。
 少しして、息が吸えるようになった林君は「死ぬかと思った」と微笑み、「次はあの木だ」と今度は公園で一番大きな木を目指した。

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