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雨にぬれてもいい

雨に濡れてもいいじゃないか、と上司が言っていた。雨には濡れないようにしなければいけないという当たり前。雨が降ったら傘を差しましょう、そう教えられてきて、雨の日に傘を忘れると、ひどく大変な大きな忘れ物をしてしまったような気になっていた。

映画「アバウトタイム」の結婚式のシーンが好きだ。雨が降ってきて、会場はてんてこ舞いになるのに、主人公のアンハサ・ウェイの笑顔は最高だった。あれからずっと、ああいう瞬間を人生で迎えたいと思っていた。結婚式で雨が降ってもそれでよいと思っている。

雨でもよかった。わたしの人生も雨でもいいのだ。でも、どうしてだか、わたしの人生は晴れ間のなかにいつもあった。光が必要らしいのだ。光のなかで、誰かに見つけてもらうことが重要だったからなのかもしれない。太陽が必要だった。自分のことなのに、他人のことのように感じる。自分とは一体なんだというのか。ふわっとした偶像のような。空が広かった。


蔵前の宿に泊まった時のこと。宿から一番近い銭湯に行った。
しわしわの身体をごしごしと洗うおあばちゃまたちが「時代についていけないわ。」と笑っていた。電車でとなりをみたら、携帯の自撮り機能を鏡にしてお化粧していた子がいたらしい。
「わたしたちの時代は生きることで精一杯だった。」とぽつりとおばあちゃまが言った。お洒落とか、恋だとか、仕事だとか、そういうことは選ぶものではなかった。生きるか、死ぬか。いつもそこにある分かれ道はその2つしかなかったのかもしれない。

もちろんその言葉にハッとして、自分の悩みなどちっぽけに思った。くだらないと思った。痩せたいと思ってエステに行くことや、脱毛にお金をかけてみたり、ちょっといいファンデーションを塗ってみるとか、どうでもよいことだと思った。

でも、わたしの生きる時代は選択の時代なのだ。選ばなければ生きていけない。生きるとしても、死ぬとしても、その手前には無数の選択事項が並んでいる。だから、昔の人はわたしたちの葛藤をくだらないというけれど、それはもう致し方ない。時代なのだ。時代を生きるしかないわたしたちに与えられた試練は、選ぶこと。それはつまり、捨てること。選ぶことと選ばないことは、同等ではないのに、だ。はっとしても、その通りには動けない。

よく生きるとは何だろうかと考える。
深いところまでいってみるにはどうしたらいいのだろう。

自分の幸せに貪欲になることだろうか、他人を思いやることだろうか。わたしにはまださっぱり分からない。

分からないまま、人生が終わってしまうとしたら、人生とはそういうことなのかもしれない。
そういうことなのだとしたら、生きていくことはものすごくスリリングなことだ。いつだって死ぬことと隣り合わせ。物体的なことじゃなくて。

7月が終わる。夏ももう本番を迎えたということ。

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