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五島灘、その西の涯てより~天神亭日乗7

九月五日(日)
 この日、五島列島の最西端の島を一組の夫婦が島民に送られ後にした。福江島の西北。貝津の港から海を渡る。島の名は「嵯峨ノ島」という。

 この島には明治の初め頃、私の父方の祖父のそのまた祖父の代が中心となり、外海(そとめ)から移り住んだと聞く。外海(そとめ)の潜伏キリシタンが明治になって信仰を許され、開拓のためにいろんな地に移り住んだようだが、私の家もそのひとつだったのだろう。しかしわが先祖ながら思う。この最果ての島、ここまで行く?凄いフロンティアスピリットだ。私が無鉄砲なところがあるのはこの先祖の血によるものだろうか。

 私が最後にこの島を訪れたのは、二〇一〇年の三月。長崎に両親と住んでいた頃だ。父が墓参りに行くことになり、同行した。父の弟である叔父も来てくれることになった。この叔父は神父である。

  長崎港からジェットフォイル、レンタカー、渡海船を乗り継いで島に着いた。我々三人を迎えてくれたのが、父の兄、伯父夫婦である。
 港近くの家にあがって早々、伯父が言った。
「みしょうちゃん、島一周してやるけん、ベンツに乗らんね」
伯父の愛車の赤いトラクター、愛称は「ベンツ」。ご一行様で乗り込んだ。   
 もの凄い震動に揺られながら、緑の中を走り抜けてく真っ赤な「ベンツ」。狭い島だが歩くと意外と距離があるだろう。しばらく進むと、笹薮の生えた一帯に差し掛かった。
 運転していた伯父が振り返って私に叫んだ。
「みしょうちゃん、ここはうちの土地やけんね、全部あげるけん、あんた何か作らんね」
父や叔父が笑う。私も笑って丁寧に固辞した。
 しかし、あらためて見渡して、ここを開拓したのか、と驚き、感嘆した。キリシタンはもともと先住の住人がいたところに入っていくので、条件の厳しいところにしか住めなかったという。だから、どの島でも教会は山の上や断崖絶壁の地に建っていることが多い。ここ嵯峨ノ島でもこのような笹薮の生える土地に分け入り、耕したのだ。その苦労がしのばれた。「無鉄砲」なだけではない、大変な精神力と忍耐力である。信仰だけを拠り所に、家族やともに移り住んだキリシタンの家々同士で、助け合いながら生きてきたのだろう。 

 次の朝、漁に出た。私も一緒に連れて行って、と頼み込んだのだ。
 朝といってもまだ夜明け前、午前四時くらいだった。昏い。しかし漁港に出た時、あきらかに昨日と違う海の姿を見た。
 海の水面が、「鏡」のようであった。波もなく穏やかな、五島灘が横たわっている。一同は驚きと喜びの声をあげた。
「こんなベタ凪は一年に一回あるかないかよ。あんたば、神様が歓迎しとっとよ」
 長崎から同行した神父の叔父がそう声をかけてくれた。神父様が言うのだから本当だ。私の初めての漁は神に祝福されている!
 ふと横を見ると、伯父、父、叔父の三兄弟がタオルを頭に巻いて、すっかり兄弟船のスタンバイ完了。この伯父の船「徳春丸」は普段は夫婦で漁に出る「夫婦船」であるが、今日は賑やかだ。伯母も船に乗り込み、エンジンがかかる。船が岸を離れていく。

 まだ昏い沖、仕掛けておいた網を引き揚げていく。この漁法は「かし網漁」というらしい。巻き取られていく網に、魚がかかっている。私も伯母にカワハギの皮の剥ぎ方を教えてもらい、悪鬼のように皮を剥ぐ。
 網を巻き取る作業をしている父と叔父、船を操縦する伯父の姿が見えた。
 このタオルを巻いた三兄弟はもう既に「老人」と言っていい年なのだが、何と言っていいのか、これこそ水を得た魚というのか。田舎教師であった父と、田舎司祭である叔父が、青年漁師の顔になっていた。そして長男、ベテランの風格の伯父。そうだ。おじいちゃんも漁師姿、かっこよかったな。その弟の福松さんも島では船に乗ってたろう。
 聖書に描かれているとおり、まずイエスが「私についてきなさい」と声をかけたのはガリラヤ湖の漁師たちだった。こんな兄弟たちだったのかしら。そしたら声かけたくなるかもしれない。湖のような水の面。イエスが歩いてきてもおかしくない凪の海を船で進みながら漁が続く。

 やがて、少しずつ明るくなる空、甲板にも朝陽がやわらかく射してきた。美しい、忘れられない、初めての漁だった。

 あれから十二年である。私に祝福の言葉をかけてくれた神父の叔父も三年前に帰天した。「徳春丸」も人手に渡り、そしてこの九月五日、伯父夫婦が島をあとにした。長崎市内の海が見えるケアハウスで暮らすことになったのだ。

 これで私の父方の一族の五島潜伏と開拓の歴史は、四代で終わることになった。
 この西の孤島で、父祖の墓だけが五島灘の波の音を聞いている。

*歌誌「月光」71号(2022年3月発行)掲載

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