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【短編】その日

(4.698文字)

 おーい。お銚子の首を摘まんでかかげたところで、妻と目が合った。まだ寒さが残るこの時期やはり熱かんがいい。
「糖尿病だって、医者に言われてるんでしょう」
 妻の言葉が耳に刺さる。
「正確には予備軍だけどな。あと一本だけ」
 おおぎょうに拝むと、困ったわねと眉をひそめる。夕餉の準備も終わったようだ。「お前も一献どうだ」と誘うと、妻は向かいに座った。妻はくいっと一気に飲み干すと、
「来週の日曜日は大丈夫よね?」
 と聞いてきた。

「来週の日曜日? 何だっけ?」
「もう。あれほど言ってたのに、やっぱり忘れてたのね。あの子の相手の方が、ご挨拶に見えるのよ」
 しまった。このところ急な仕事が立て続いて、失念していた。
「髪ぐらい整えておいて下さいよ」
 妻は手酌で二杯目を注いでいる。
「まだいいだろう」
 少し伸びた襟元の髪を摘まみながら言うと、
「ダメですよ。ちゃんとして迎えて下さい」
 妻が切り返してきた。

 仕方ないなあ。カレンダーに目をやると、いつもの理髪店は定休日だ。
「じゃあ、私が行っている美容室に行けば。結構男の人も来てるわよ」
「でも若いヤツばかりなんだろう」
「そうでもないわ。この前はあなたぐらいの年の人も来てたわね。びっくりしたけど」
 人に勧めるのにびっくりしたはないだろう。私もそう見られるのだろうと思うと、一瞬で気が失せた。
「紹介しようか?」
 既に妻の中では、私が美容室に行くことは決定事項のようだ。
「そうだな」
「上条さんっていうの。いいこと、失礼のないようにしてよね」
「わかってるよ」

「それより相手の男はどんなヤツなんだ。何か聞いてないか?」
「あの子、口が硬くて」
「お前の娘なのにな」
「何よ、他人事みたいに。あなたの娘でもあるのよ」
 そう言う意味ではないんだが、取り立てて正しはしない。
「飯にするか」
 私は最後の一杯を喉に流し込んだ。


 妻が勧めてくれた店は、道路に面した壁全面がガラス張りになっていた。一応顔が見えないよう一部目隠しはしてあるが、丸見えもいいところである。店の前でしゅんじゅんしていると、何かの拍子に腰をかがめた店員の女性とガラス越しに目が合ってしまった。にこりと笑顔を向けられて、引き返せなくなってしまった。
 店に入ると、一瞬客の目が私に集中したが、直ぐに興味を失ったようだ。男性客も多いという妻の情報は満更嘘でもないようだ。

 受付で指名を聞かれて、妻が教えてくれた名前を告げた。
「今、接客中ですが……」
「待たせてもらうよ」
 私はかたくなな所がある。以前一見の理容店に行った際、私の細かい注文に嫌な顔をされて、切らずに帰って来たことが二度ほどあった。妻はそんなこと百も承知している。その妻が薦める担当を無下に変更できる訳がない。

 洗髪した後、乾かしてもらっていると声が掛かった。私は席を移った。
「いらっしゃいませ。上条です」
 若い男性が待ち構えていた。
「こういう所は初めてですか」
「そうなんだ。どうも勝手が違って戸惑っているよ」
「そうかも知れませんね。今日はどういう髪型にしましょうか」

「物分かりのいい父親風にしてもらえないか」
「えっ?」
「すまん。冗談だよ。どう言えばいいのかな」
「いつもの理髪店でやってもらっていることを教えていただければ」
 私は事細かに注文を付けた。だが彼は一つ一つに黙って頷く。

「やはり、こういう所はいやですか?」
「うーん、苦手と言うか、入りづらいと言うか、私は古い人間だから美容室は女性が行くものだって、変な思い込みがあってね」
「うちの親父もそうですよ。僕が美容師になりたいって言うと、頭から反対されました」
「お父さんの仕事は?」
「公務員です。市役所に勤めていて。堅気の仕事に就けってうるさくて。今はもう諦めたみたいで、何も言いませんが」
「認めてくれたんじゃないのか」
「だといいんですが」

 話の糸口を付けたところで、今の最大の関心事へと振ってみた。
「立ち入ったことを聞くようだが、君は独身かな?」
「はい」
「付き合っている人はいるの?」
「ええ。近々ご両親に挨拶に行こうと思っています」
「そうか。私は来週、娘の相手に会うことになっている。実は今日はそのためでね」
「面白いですね。全く逆の立場の二人がお客様と店員としてここにいることが」

「でも対等じゃないんだな。君の方が絶対有利なんだよ。娘という強力な援軍がいるからな。彼女をじっくり見ていれば、どんな育てられ方をしたのかわかる。両親の姿が何となく垣間見えるだろう」
「そうですね。彼女が言うには、なかなかに頑固なお父さんらしいんです」
「そうか。それは大変だな。でも娘を持つ父親なんて、そんなもんだよ。娘のことが心配で仕方ないんだよ。親からすれば、いくつになっても子供は子供だ。どれほど愛し合っていると言っても、簡単に『じゃあ娘を頼む』なんてわけにはいかないさ。娘の将来が掛かっているからな。相手がどんなヤツか見極めないとな」

「ヤツですか。父親の心情からしたら、そうですよね。私にも妹がいますから、その辺の気持ちは少しは分かる気がします」
「いや、君みたいな人だったらいいんだが。ところで、彼女のどういう所が気に入ったの?」
「まあ、明るいとか、笑顔が可愛いとか、ほかに幾つかあるんですが……」
「言うねえ」
「すみません。でも一番は、包装紙を破かずきれいに解くところですかね。幾つも畳んで仕舞っていますよ」
「ほう」
 驚いた。妻にも同じ癖がある。私は貧乏臭いからやめろと言うのだが……。

 彼は三十前後だろう。私の部下にも同じ年頃が二人ほどいるが、彼らとは私生活のことなどほとんしゃべったことがない。はなから話が合わないと私が勝手に思い込んでいるだけで、会社を離れると案外こんな感じで会話ができるのかも知れない。

 そうするうちに、上条は鋏を置いた。
「これで、どうでしょう」
 私は、仕上がりに満足して店を出た。


 出張は思いの外長引いた。土曜日は予備日のつもりだったが、結局作業を終えたのはその日の夕方だった。
 重い足を引きずるようにホテルに戻るや否や、胸の内ポケットの携帯が震えた。仕事中は電話をしないよう自制している妻だが、そろそろしびれを切らす頃だと思っていた。

「今、どこにいるの?」
「まだこっちだ。予定よりも手間取ってな」
「約束、覚えてるわよね」
「当たり前だ。明日朝一番の飛行機を予約した。何とか間に合わせるよ」
「あの子、二ヶ月前からちゃんと予定を空けておくよう、お願いしてたでしょう」
「そうは言ってもな。仕事は得てしてスケジュール通りとはいかないんだよ」
「そうでしょうけど、今度約束を破ったら、あの子、もう一生口を聞いてくれないわよ」

  あり得る。かえりみれば、授業参観日はもちろん、遊園地や旅行など、急な仕事で直前になって中止したことは枚挙にいとまがない。その度に妻に、「できない約束なんか、しなければいいのに。期待している分、加奈子がかわいそうでしょう」と言われたものだ。
 淡々とした口調で言われると返ってこたえる。でも破りたくて約束しているわけじゃない。娘の喜ぶ顔が見たいから何とか守ろうとするのだが、一方では娘と二人きりになると何を話していいのか分からない自分がいる。
 そして約束を破る羽目になったことを少しほっとしていたことは否めない。それが私を後ろめたい気持ちにさせた。

「わかってる。絶対、守るよ」
「あの子の方から歩み寄ってきてくれたのよ。分かってるわね」
「何度も言うな」
 いらだちがつい口を吐いて出た。
「すまん」
 娘は、日頃から形式だけの結婚式なんかどうでもいいと言っていたから、事後に入籍したことを報されるものと思っていた。それでも仕方ないと諦めていた。それがどういう風の吹きまわしか結婚の挨拶に来ると言う。おそらく彼の意向だろうと思われた。

「なあ」
「ん、何?」
「いや、何でもない。おやすみ」
 どんなヤツだか知っているんだろう。私は喉元まで出掛かった言葉を飲み込んだ。


 飛行機は悪天候により予定より一時間遅れた。乗る予定だった空港バスは逃したが、それでも電車を乗り継いで、駅に着いたのが約束の三十分前だった。
 何とか間に合いそうだ。
 電車のドアが開くと同時に飛び出し、改札を駆け抜け、息せき切ってタクシー乗り場へ走った。
 しかし悪いことは重なるもので、タクシー乗り場を見てがく然とした。いつもならロータリーにたむろしているタクシーが、今日に限ってたった一台しかいない。しかもその一台が今将に出て行った。

 まずいな。
 取り敢えず列の最後に並んだ。一旦客を乗せたタクシーはおそらく最低でも三十分は戻ってこないだろう。かと言って徒歩では優に四十分は掛かる。とても間に合わない。妻と娘の苦い顔が脳裏をよぎる。大きくため息を吐いた。
 その時、列の先頭の若者と目が合った。男性が会釈をする。私も頭を下げたものの、誰だかわからない。男はそれと気づいたようで鋏を使う仕草をしながら、「先日はどうもありがとうございました」と言う。

「ああ、君か」
「お急ぎのようですね」
「娘達が来るんだが、約束の時間まで間がなくてね」
「どこですか? 、家」
「中町だが……」
「それなら同じ方向ですね。ご一緒しませんか? 。僕の方はまだ時間に余裕がありますから……」
 いやーっ、助かったよ。
 まさしく渡りに船だ。私は遠慮無く同乗させてもらうことにした。
「中町一丁目までお願いします」
 なるべく信号がない道を選んで案内した。

 やれやれ。何とか間に合いそうだ。
 私は時刻を確認しながら、その時になって初めて上条がスーツ姿なのに気づいた。手土産らしい紙袋を携えている。
 何だ。そうか、そういうことか。
 そう言えば、妻の言動にもいくつか思い当たる節がある。妻が執拗に美容院を勧め、上条を指名するように念押しし、失礼のないようにねと釘を刺したこと。そして今日この時間に上条と会ったこと。何らかの意図を感じる。

「この間、君は近々彼女のご両親に会うって話してたね」
「はい」
 妻は、事前に彼に会わせることで私をかいじゅうする作戦に出たようだ。
「そこ、街灯の下で止めて下さい」
 上条は固辞したが、私はメーターに表示された額より少し多めに運転手に渡した。
「君なら歓迎だよ」
「えっ、何のことでしょう?」
「君が、娘の相手なんだろう」
「いいえ。僕じゃありません」
「えっ、違う」

 心の中で膨れ上がっていたものが急速にしぼんでいく。
「そうか……。それは残念だ」
 私の勘も鈍ったものだ。
「こんな優しいお父さんを持って、娘さんは幸せですね。差し出がましいようですが、もっと娘さんのことを信用してもいいのかなと思いますよ」
 ぼう然としている私に、上条は指でこめかみ辺りをこんこんつつきながら、
「もう田中さんのデータはここに入ってます。これを縁に贔屓ひいきにして下さい」

「遅かったじゃない」
 タクシーを見送っていると、妻がエプロンで手を拭きながら出てきた。
「早く着替えて。もうすぐ見えるわよ。先ほど加奈子から電話があったから」
 背中を押されて家に入る。

 しばらくして家の前に車が止まる音がした。


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