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光の虚と実 海野貴彦個展「光源郷」

展示を見て、海野貴彦は一貫して風景画家なのだと思った。むろん一般的な意味での風景画家のことではない。

海野自身にとって重要なのはそのときその場所から見ることのできる光景をいかにして人びとに見せるか。そのために海野はいつも見晴らしの一番いい場所にすすんで登っていくような心意気の持ち主なのだ。

最初期にはグラフィティ調のドゥローイングを画布や衣服にオールオーヴァーに描く作風からスタートし、幾何学的な立体図形がリズミカルに増殖するイメージの絵画に延伸してきた。同時に、作家同士の交流やまちおこしのアートイヴェントをオーガナイズしたり、観客を前にライヴ・ペインティングのパフォーマンスを行ったり、人との関わりや交わりの生成そのものを制作の原動力にしてきた。また、5年ほど前から広告の仕事に関連して緻密なパース画で住宅の立ち並ぶ町を大画面に描いたり、2017年には杉並区立天沼小学校開校10周年を記念して地元の風景を壁画にしたりといったパブリックな作風まで、近年その広がりはとらえようのないほど多彩多様を極めていた。

そこに来て今回の個展では、また見事にまったく新しい作風に挑戦してみせた。「光源郷」の名の通り、すべての絵は光を放つものを描いている。街灯や花火に照らされた夜景、そして空に昇る太陽。いずれも自分で撮影した写真を元に、アクリル絵具による具象的なタッチで描いたもの。なかに一枚だけテレビアニメから太陽を見上げたシーンをそのまま引用して絵具で描いたものがある。

西洋の絵画が暗部に絵具を置くことで対比的に明部を描き出すものであることを念頭に置けば、光源そのものを描く対象とすることは無謀なことだ。通常は光源からの照射で照り返す物体、その最も明るい反射光をハイライト(最明部)として白の絵具で描くのが通例だからだ。美術史的には写真機の普及によってハレーションなどレンズ特有の現象が効果的に用いられるようになるまで光源に目やレンズを向けることはなかったはずだし、展示物としては絵画そのものが適切な光源の反射によって知覚される存在である。そこがモニタのバックライトで発光する映像イメージとの大きな差といえる。

にもかかわらず光源を描く画家は、太陽に向かって飛んでいくイカロスさながらに無茶で無謀な存在として自らを提示している。ガンダムを題材にした1枚はそのあらわれでもあるし、一見して脇役のカイを描いたものでありながら実はここには描かれていない主人公の存在が提示されている。すなわちこれは太陽を見上げるアムロの主観映像の1カットであるという事実によって、観る者が主役であるという絵画の仕組みがあらわにされる。

ギャラリーのショーウィンドウの角に設置した実物のミラーボールも、深読みすればそれは照明装置(光源)ではなく反射光で輝くミラー(鏡)であるという意味で絵画と同列であり、この個展全体を相対化する大いなる皮肉に見える。

冒頭で僕が記したようにもし海野が何かの風景画家であるとするなら、彼が描いてみせる景色(のようなもの)とは、なにやら大竹伸朗が自作のタイトルに接尾辞のように付ける「景 scape」の字のもつ感覚に近い何かなのではないか。海野が制作の拠点とする愛媛県松山市三津浜が、大竹のアトリエのある宇和島を連想させたりもするのだが、おそらく海野自身はそのことはまったく念頭にないだろうし、二人には何の交流もないはずだ。にもかかわらず、彼らに共通するのは、それぞれの「景」が20世紀のポップカルチャーや昭和の大衆文化といった雑多な事象と地続きにある彼らそれぞれの美術からの展望を写しているからではないか。

海野貴彦『光源郷』 東京・銀座・un petit GARAGE 2018年3月26日-5月18日 http://yyarts.co.jp/exhibition/takahikokaino/


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