「人がやらんくてええやろ」を考える

先日知人を招いて自宅でボドゲ会を開き、ライナークニツィアの名作である「エスカレーション」をプレイしていたときのこと。

▲前の人よりも大きな数字を出していくだけの簡単なゲーム

一旦説明を終えて、一度テストプレイを行ったあとに、少しボドゲ経験がある友人が大負けしたあとにこう言い放った。

これ、人がやらんくてええやろ。機械にでもやらせておけよ。

まぁまぁそう言わず、と何ラウンドか繰り返した結果、彼も結局はエスカレーションの虜になったのだが、私の中ではそのときの発言が今もこだましている。

別にショックだったわけではない。ボードゲームを色んな人とプレイする中で、あれやこれやは言われ慣れている。そしてこの論考は彼を糾弾するものでもない。

そうではなく、最近以下のようなツイートを見て、この話と同じ地平にあるのではないかと思ったためだ。

そう思うのが心が狭いかどうかはさておき、彼のような人に「将棋でもやれば良いのに」と言って将棋を始めるとは到底思えない。では、そうした発言をする人々の心の叫びは一体何なのだろうか、何を求めているのだろうか。何が不満だったのだろうか。
この問題に答えを与えていきたい。まずは「人がやらんくてええやろ」問題を考えていこう。

「人がやらんくてええやろ」に込められた思い

「人がやらんくてええやろ」は言い換えれば、「俺がやる必要はないやろ」になるはずだ。つまりこのゲームに「俺」が関わる要素が少なすぎるため、モチベーションが湧かないというようなニュアンスだ。いや、もっと踏み込んでいえば、ゲームの中に自分の居場所が用意されていないという危機感の現れなのだろう。

「俺」なしでも何事も変わらずに進んでいく世界を想像してみよう。自分がいなくてもみんなが掃除してくれるクラス、休んでいても誰かが代わりに自分の仕事をこなしてくれている職場。どちらも理想的ではあるものの、どこか引っかかりを覚える人が多いだろう。

ゲームに限らず、「俺」が主体的に関わることで世界が駆動していく、そんな一種の「自己中心感」は誰しもが一度は憧れたことがあるはずだし、いけないことだと分かっていても気持ちの良いものだ。

逆に言えば、面白いゲームは「俺」が関わる要素が十二分に含まれているということになる。つまり「人がやらんくてええやろ」は「ゲームの中に俺の居場所をくれ!」という心の叫びなのかもしれない。

例えば「サイコロの出目ゲーム」があって、「6を出したら勝ち!」というルールだったとしよう。このゲームは果たして楽しいのだろうか?恐らく楽しくない。なぜなら誰がやっても、そのうち6は出るからだ。私の居場所が確保されている実感は得られないだろう。

しかし最初に6を二回連続出したら勝ち、というルールだったら少し楽しいかもしれない。結局1/6を二回連続で引くだけのゲームだが、何となく自分が関わっている感が出る。(なぜ同じ動作を二回繰り返すことがゲーム性をもたらすかについてはまた別の記事で考えたい)

どうして他でもないこの「私」がゲームに関わっていくことがボードゲームにおいて大事なのだろうか。どうして私はゲームの中に「居場所」を求めるのだろうか。そもそもゲームに関わっているとはどういった状態なのだろうか。

まだまだ検討が必要なことばかりだが、次は運ゲーに含まれる「運」という言葉がゲームにおいて指し示す内容を確認していきたい。

運とは

運とは世界で唯一万人に拓かれた公平な要素である。平等と不平等が概念としても、そして現実としてもせめぎあう世の中であっても、サイコロを振って6を出す運はアメリカの大統領だろうが私だろうかこの世に生を受けたばかりの赤ん坊だろうが等しいはずだ。

これがあるからこそ、ボードゲームを誰もが楽しむことができる。
もし運が一切含まれないゲームは、習熟度に左右されない老若男女が楽しめるものにはならないはずだ。将棋などに代表されるアブストラクトゲームがその代表だ。

私は将棋で羽生さんには100回やっても100回勝てない。だが麻雀のルールは分かるので、麻雀のプロと100回やれば1回くらいは上がれるだろう(上がらせてほしい)。

カタンやカルカソンヌ、ドミニオンなどの代表的なボードゲームには運が適切に紛れ込んでいる。

運は「ゲームは楽しむものである」という目的に皆を誘う先導者であるはずだ。

再現性

では「運ゲー」はそうした運そのものを否定する言葉なのだろうか。

運そのものを否定して何か物事に関わるということは、ある物事に対してどんな状況でどのように関わろうとも、同一の意思決定が行われたり、完璧な結果の再現性を求めたりしているということになる。

再現性が担保されるという言葉で思い出すのは、自然科学の諸分野である。同一の環境で実施された実験結果が同一の結果をもたらすことが担保されない限りは、論拠として用いるにはいささかの不安を覚える。

しかしながら、そうした自然科学の分野ですら、完璧な再現性と呼ぶにはほど遠いかもしれない。一見完璧な再現性をもたらすはずの科学の世界において、理論の枠組みをずらすことによって新しい考え方が生まれ、それによって既存の結果の捉え方が変わっていった例は枚挙に遑がない。

少し話が逸れたが、ゲームにおいてそうした「再現性」が担保されることに何の意味があるのだろうか。あなたがやっても、私がやっても一緒。結果の再現性が担保されていたら、それはもはやゲームではない。
ということは「運ゲー」によって否定されているのは、運そのものではないはずだ。

例えば将棋・囲碁・チェスなどのアブストラクトゲームは原理上、運が入り込む要素はない。香車はある日突然横向きに移動したりしないし、SSRの金色の碁石が現れることもない。理論的には相手の全ての行動を読み切れる。

それ以外のゲームでは少なからず「運」が入り込む。トランプゲームの代表である大富豪は手札が毎回異なる。ボードゲームの王様であるカタンはその配置が実に1兆通り以上あることを売りにしているし、TCGで同じデッキを使ってもいつどこで望みのカードが引けるかは基本的に運だ。

そうした意味ではほぼ全てのゲームは運ゲーだ。だが大富豪を運ゲーと一蹴したり、カタンはその運要素の強さゆえにお王様の地位から蹴落とすような人を私は見たことがない。

運ゲーと否定的なニュアンスを込めるときは、ゲームにおける運要素=自分の力ではコントロールができない要素、がゲーム全体に占める割合が非常に大きい場合に言われることが多いと思われる。

その際には確率の概念も考える必要がある。運と確率は似た概念ではあるが、この文脈では異なる意味をもつ。たとえばスプラトゥーンでシューターを使うとよく分かるが、玉にはブレがある。おそらく内部では確率的に玉をブレさせていると思うのだが、それをもってスプラトゥーンを運ゲーと呼ぶ人には未だ出会ったことがない。

少なからず多くのゲームには運の要素が入り込む。これは誰もが認めるところであり、運ゲーだなんだと言う人もそこに対して違和感を覚えているわけではないだろう。

「運ゲー」という言葉で否定されているのは、運要素の入り込み方だ。

運要素の入り込み方

結論から言えば、「ゲームをゲームたらしめる根幹に運が強く関わっていると思われる場合」にそのゲームは運ゲーであると言えるだろう。

例えば最初の「サイコロの出目ゲーム」はまさに運ゲーだ。

エスカレーションをプレイした友人もまさにそうだったのだろう、自分では最適なカード選びをしているつもりなのだが、回ってくるタイミングで絶妙に出せないカードが繰り返し出てくる。

自らの意志としての「出さない」ではなくルールとして「出せない」ということが積み重なると、自分の意思決定が関わらないように見えてしまい、冒頭の発言に至ったのだろう。もちろんそこまでに「出さない」ことを選ばないことや、カードの出し方などで意思決定を積み重ねているはずなのだが。

エスカレーションは「出せない場合にカードを引き取るところ」だけがゲームなのではない、そこまでのいくつもの意思決定の過程がゲームなのだ。

同じく麻雀も「どの牌をツモるのか楽しみにすること」だけがゲームではない。ツモった牌ごとにどれを切るかの意思決定を行い、ときに鳴き、ときに降りる、その全ての意思決定の過程がゲームを成す。

運はあなたの意思決定を邪魔しない。むしろ運があなたの意思決定を促すのだ。
欲しい牌がツモれなかった、最悪な出目を引いた、欲しいカードがトップにこない。だからあなたは考えるのだ。だからどうするかの意思決定をするのだ。

運が意思決定を阻害するように思えたとき、それは運ゲーなのだろう。
したがって上振れを引きまくって勝ったとしてもそれは楽しくないはずだ。冒頭の友人とは逆の意味で意思決定が運に阻害されているように感じるからだ。

Controllableであること

ここからは補論だ。筆が進んだので書くだけで、本論とは関係がない。

自分で意思決定ができることはControllableであることだ。

一方で私たちはこの世界がControllableでないことを痛感している。急いでいる日に限って電車が遅延している、機嫌よく仕事をしたいのに上司の理不尽な怒りに巻き込まれる、欲しい物に限って売り切れている。多くの場合は自分がこうしたいと思っても、その通りにできる力も状況も運もないのだ。

逆に全てがControllableであると考えるのは、それはまた傲慢であるように感じる。したがってときに意思決定をした、ときに意思決定ができなかったと、都合よく折り合いをつけているのが普段の私たちのあり方であるはずだ。

以前の論考でも簡単に触れた気がするが、だからこそ私たちはゲームにControllableを感じさせてくれることを求めるのではないだろうか。

ゲームはこの世界から隔絶された箱庭である。いわば現実世界における人間関係や、状況というものは基本的に関係がない。上司だからハンドが良くなるわけではないし、赤道直下でやれば赤いコマが強くなることもない。ゲームにおける一切合切はゲームの中だけで完結する。ただし箱庭であるから輪郭は必ず存在し、一般的にそれはルールと呼ばれる。

ゲームにおける意思決定は少なからず「結果が得られる」ことが保証されている。誤解のないように言っておくが、これは自分にとって望ましい結果が必ず得られる、という意味ではない。つまり機会の保証であって、結果の保証ではない。

意思決定ができること、Controllableであることとは、インプットに対してアウトプットがあることが保証されているということだ。それはルールが保証してくれている。カードをプレイしたときの効果はそのカードに書かれていること以外には起こり得ないし、人生ゲームにおいて1から10以外の出目が出ることはあり得ない。

逆に現実世界では、例えるならカードの効果を勝手に横入りした人間が決めてくることもあれば、金の力で人生ゲームのルーレットを勝手に変えるようなこともある。そのあり方を根本から否定することはしないが、なんとも世知辛い。

事象と事象とが思ったように結びつかずに歯がゆい思いをする一方で、ときに思わぬ縁が重なり幸運を得る。てんでバラバラな出来事同士が私という空間の中でくっついたり離れたりを繰り返す、そんな偶然の産物の中で私たちは生きている。

そんな中でゲームは出来事と出来事の最もミクロな関係性を結びつけてくれる機会を保証してくれる。偶然の産物に対して必然の産物が手の中にある。私も気が付かなかったが、それはきっと些細な幸せなのだ。

ゲームはルール内における意思決定のあり方が本質なのかもしれない。この本質はボードゲームとビデオゲームの差異を問わない。

さいごに

ゲームをやっていて運ゲーだと言われることは正直気持ちの良いものではない。

そうした人に私がかけられる言葉はあるのだろうか。少し考えて一つの答えが見つかった。

もう一回やってみよ?

彼らはそのゲームの一つの側面しか見えていない。それをもってゲームを運ゲーだと決めつけてしまうのは非常にもったいない。

そのゲームをゲームたらしめているものはもっと別の場所にあるはずだ。

一度では分からないかもしれないゲームの楽しさを理解したい。だからこそ展開の多様性があるゲームとワンプレイの短いゲームを私は好むのかもしれない。


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