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第11回「本を売る」ことに魅せられて

 2003年(平成15年)38歳の春、僕は会社を辞めて毎日、図書館へ通っていました。
好きな歴史上の人物の本を、手にとり、吉川弘文館の『国史大辞典』を横に置き、大学ノートに書き連ねていく。こんな作業を子どもの頃からやっていたことを思い出しました。何の進歩もしていないのです。

人生におけるLong Vacationを、ひと足先に満喫していると書ければいいのですが、そんな悠長なことは、言えません。

しかし、今は他にやることもなく、やりたいことと言えば、こうして、本を読み、感じ、頭の中に一度入れて、ノートに書き出す。
立花隆の『知のソフトウェア』(講談社現代新書)のように「インプット」して「アウトプット」することを幸せと感じていたのです。

僕は、歴史上の人物の中で誰が好きかと問われたら、卒論で書いた源義経も好きですが、この頃は、坂本龍馬が好きでした。司馬遼太郎の『竜馬がゆく』の影響も大きいのだと思いますが、この時、自分が失業、つまり脱藩中の浪人であったこともあり、再び、龍馬について知りたいと思っていたのです。

そんな時に出会ったのが、勝海舟の『氷川清話』(講談社学術文庫)でした。
本書の説明文は以下のとおりです。

完全校訂版
江藤淳・松浦玲編、未収録談を大量増補
海舟が自在に語る談話の数々。
幕藩体制瓦解の中、勝海舟は数々の難局に手腕を発揮、江戸城を無血開城に導いて次代を拓いた。晩年、海舟が赤坂氷川の自邸で、歯に衣着せず語った辛辣な人物評、痛烈な時局批判の数々は、彼の人間臭さや豪快さに溢れ、今なお興味が尽きない。本書は、従来の流布本を徹底的に検討し直し、疑問点を正し、未収録談を拾い上げ再編集した決定版。

この『氷川清話』は、勝海舟が話したことを吉本襄が筆記し、出版されました。

江藤淳・松浦玲は、講談社にて『勝海舟全集』も編纂しています。「勝海舟が、こんなことを言うはずがない」と吉本襄による改竄を本書で明らかにしています。

『氷川清話』を読むなら、ぜひ講談社学術文庫で!と言うことです。

僕の『氷川清話』の感想は、龍馬が亡くなり、維新の三傑も皆、亡くなった後も生き続けた海舟が、龍馬を、そして南州(西郷隆盛)を褒め称える事で、自身を称えているなと感じました。

さて、その海舟と龍馬の出会いは、『竜馬がゆく』によると

竜馬は、起きあがった。
「どうだ、重さん、やるからには、築地の橋で待ち伏せなんてのはやめよう。あれはどうも」
「どうも?」
「みじめすぎるなぁ。もっと刺客てのは、本当は、虫ケラのような人間のやることだとおれは思うけれど」
「竜さん」
「いや、待った。やるよ、おらァ。やるといったら坂本竜馬、きっとやる」
「それで安堵した」
「だが、待伏せなどはせず、真昼間、堂々と勝の屋敷に案内を乞い、勝に会い、それでけしからんのなら、その場で一刀両断しよう。男というのはそうあるべきものだ」

司馬遼太郎『竜馬がゆく』3巻(文春文庫)より

とあるように、千葉重太郎とともに海舟を斬りに行くシーンがあります。

あのような劇的なものであったのか、いろいろ調べてみると、あれ?と言う事もあります。

そもそも「海舟日記」に龍馬の名が登場するのは、文久2年12月29日、場所は兵庫です。

千葉重太郎来る。同時坂下(原文ママ)竜馬子来る。京師の事を聞く

とあります。苗字間違ってますが(笑)『竜馬がゆく』と同じく、千葉重太郎と一緒に海舟を訪ねています。でも、氷川の海舟の屋敷ではありません。

そして、松平春嶽の書簡によると

或日朝、登城の前[中略]坂本、岡本(健三郎)両士、余に言う。勝、横井(小楠)に面晤仕度、侯の紹介を請求す。余諾して勝、横井への添書を両士に与えたり

『松平春岳未公刊書簡集』(思文閣1991年刊)

とあるように、龍馬を海舟に紹介したのは、松平春嶽のようです。

また福井藩の公用記録『續再夢紀事』に龍馬の名が最初に記されているのは文久2年12月5日の条に

帰邸後、土藩間崎哲馬、坂下(原文ママ)龍馬、近藤昶次郎来る。公(春嶽)対面せられしに大坂近海の海防策を申立たりき

日本史籍協会叢書『續再夢紀事』(東京大学出版会1974年刊)

とあり、またもや苗字が間違ってますね。

そして、同時期の「海舟日記」12月9日の条に

此夜、有志両三輩来訪、形勢の議論あり

とあります。この有志が、『続再夢紀事』の間崎哲馬、坂本龍馬、近藤長次郎の三名と推測できます。
つまり、名は出ていないが、「海舟日記」における龍馬の初出は、文久2年12月29日ではなく、12月9日となり、海舟への弟子入りも、この日では?とする研究者もいます。

勿論、『竜馬がゆく』は、小説であり、史実をもとに司馬遼太郎が描いた創作であることは、間違いありません。しかしながら、以前、司馬遼太郎記念館に行った時、海舟と龍馬の出会いについて語る司馬遼太郎の映像が流れていました。まるで、現場を見てきたという感じで、嬉しそうに語っていた司馬遼太郎の笑顔が忘れられません。これ以上の詮索は無用ですね。

龍馬は海舟のもとで学び、「日本第一の人物」「天下無二の軍学者」と仰ぐようになったことは、姉の乙女へ送った手紙のとおりですし、「薩長連合」「大政奉還」「船中八策」を成したことも史実なのだから。

しかし、こうして、好きなことを探求するって楽しいですね。
歴史を紐解くことは、ミステリー小説の謎解きに似てます。
このまま研究者になろうか?と本気で考えている自分がいました。
(愚か者!それで飯が食えるのか!)

ちょうど、この3月に長女は、小学校を卒業しました。夫婦そろって卒業式に出席できたのも、失業のおかげとも言えます。長女は、学年を代表して合唱曲のピアノ伴奏をしました。こういう時は、ほんと親バカですね。ビデオ撮影までしていました。

4月からは、長女は中学生、次女は小学4年生。いつまでたっても仕事を探さない夫を見兼ねたのか、このタイミングで妻は、働きに出ると言ったのです。結婚して、子供ができるまでは、広尾にある日赤医療センターで、医療秘書の仕事をしていましたが、長女を産み、その後は、ずっと専業主婦でした。12年のブランクがありましたが、家から近い第二救急の病院に勤務することが決まりました。

子どもたちに「ママは働くことになりました」と話すと、「どうして?!どうして?!」と次女が嫌がりました。次女は、ママにべったりの甘えん坊です。妻は、「お金がないの...」と優しく話しはじめました。すると次女は、引き出しから、お年玉を貯めた通帳を取り出し「お金がないなら、これあげる。優ちゃんの貯金全部あげるからママ働かないで」と泣きだしました。僕は、子どもたちから大切なものを奪ってしまったのです。妻は「ごめんね」と言って娘のあたまをなでながら泣いていました。僕もたまらず涙が零れ落ちました。

このままでは、ダメだ。晴読雨読の日々をやめて仕事を探そうと決意しました。
しかし、そもそも就職活動というものをしたことがありません。明日香出版社に入社した時も、よく言えばお誘いいただいたからであり、その後の転職も、能動的というよりも、受動的でしたので、どう就活していいのか、わかりません。ただ職務経歴書は、作ろうとパソコンで書き始めました。
学生時代は、紀伊國屋書店ではたらき、卒業後は、明日香出版社を含め、3社で約15年間、出版営業の仕事をしてきました。出版営業と言えば、自社の本を取次や書店に紹介し、注文をいただくのが本来の姿です。しかし、僕の場合は、真っ直ぐにそこに行かずに、「書店的な目線」で、まず話をします。自社の本の話をする前に、その書店で売れるか、棚を診断します。そして、その見解を書店員に伝えて、改善案を提案します。或いは関連書籍や、そのジャンルの定番商品が何であるか提示します。そのことで、「コンサルしたいなら、書店から金取って来い」と上司に怒られたこともありました。それでも、自分の営業スタイルを変えることは、しませんでした。なぜなら紀伊國屋書店時代に、出版社の営業の方からの情報が、どれだけ頼りになったか、身に沁みてわかっていたからです。持論ですが、出版社の営業の仕事は、二つだけです。「情報を提供すること」と「情報を収集すること」です。業界の情報、他書店の情報、棚に関する情報、他の出版社の情報や本の情報、そして、自社の出版物の情報。注文は、こうした情報を提供した過程と考えます。こうした情報を提供できるように、情報を収集し、また会社へ情報をフィードバックして、企画、出版へとつなげていくことが、出版営業の仕事だと考えていました。こんな昭和時代の営業スタイルは、令和では暑苦しいだけと言われるかもしれませんね。店頭状況を診ることなく、本部とオンラインミーティングで一括注文をとるのが、あたりまえになっていますから。これからは、AI配本も導入されるので、ますます人間は、いらなくなります。果たして、AIには、各書店の棚のレイアウトや在庫情報、そして何よりも大切な書店員の技量もインプットされているのでしょうか?

だいぶ話が脱線したので、2003年に話を戻します。
就活しなければならないのですが、自己分析すると、僕は変なやつで、扱いづらい人物という自覚だけは、ありました。

妻が仕事をしている昼間、僕は図書館に通うことをやめて、洗濯、掃除、夕食の準備をするようになりました。恥ずかしながら、これまで、家事も育児も妻のワンオペでした。
でも、この時から心を入れ替えて、朝一番に起きて、洗濯機をまわして、朝食をつくり、子どもたちを学校へ送り出して、妻を病院まで車で送り、洗濯を干して、お風呂場を洗い、掃除機をかける。午後、次女が帰ってくるのを待ち、洗濯を取り込み、畳む。部活が終わり長女が帰宅。夕食の準備をはじめ、夕方、妻を車で迎えに行く。しばらく、このような生活が続きました。

ただ新聞だけは、毎日ゆっくりと読んでいました。また折り込みチラシにも目を通して、スーパーの特売品を買いに行ったりもしました。折り込みチラシの中には、求人広告もあり、何か自分にもできる仕事はないものか、探しました。すると、市内にある凸版印刷(現在のTOPPAN)の求人応募があり、履歴書を送ることとしました。すぐに返事があり、面接となったのですが、交代で夜勤もあると言われて躊躇しました。

そんなある日の午後、家の電話が鳴りました。ディスプレイには、登録されていない携帯電話の番号が表示されましたが、受話器をあげて電話口に出ると、「いまじんの近藤です」と名乗り、名古屋弁まじりの早口で、しゃべりはじめたのです。
電話の主は、近藤秀二さん。近藤さんは愛知県刈谷市で、1981年(昭和56年)に本・ファンシー・CDなどを扱う情報文化センター「しーがる」を創業し、その後、岡崎市や安城市に次々と出店。一方で同じ日販帳合の書店と共同仕入をはじめ、仲間を増やして、マジカルガーデンと合併し、社名を「いまじん」とします。さらに「カルコス」と業務提携、「エイデン」と資本提携します。さらにさらに「白揚」と業務提携、「バロー」と資本提携、第三者割当で資本を増強して、直営店、FC店を含めて、愛知、岐阜、三重で50以上の店舗を展開していました。またBOOKSヤマギワの山際敏博さんを、「いまじん」の取締役本店長兼商品戦略室書籍部長として招きいれ、本店を名古屋市北区におきました。その他、僕の知ってる人では、岐阜の自由書房にいた加藤伸治さんが「いまじん」に移籍するなど、愛知、岐阜、三重の書店の貴重な人材が「いまじん」に集まっていました。この時、近藤さんは、「いまじん」の代表取締役会長でした。

近藤さんに出会ったのは、明日香出版社で、愛知、岐阜、三重の東海三県を担当していた時ですので、1990年(平成2年)頃、営業で刈谷の「しーがる」を訪問すると、わざわざ他の「しーがる」の支店(岡崎や安城)を、近藤さんが運転する車で案内していただきました。
また近藤さんは、豊友会(豊友経営研究会)で勉強をされていて、その勉強会に明日香出版社の石野誠一社長を講師としてお招きし、講演会をしてほしいとの要望を受け、僕は石野社長の鞄持ちで、その講演会にも参加させていただきました。
近藤さんは、石野社長、僕をご自宅にも招いて歓待し、翌日はまた名古屋市内の他書店を案内してくれました。当時、有名になりはじめていたヴィレッジヴァンガードも案内してくれました。本当に農業用の倉庫を、そのまま店にしたようで、アメリカングッズなど雑貨が陳列されていました。書籍では第三書館の『マリファナ・ナウ』が、山のように積まれていたことを覚えています。

その後も、名古屋へ出張するたびに「いまじん」の本店を訪ねると、近藤さん、山際さんから手厚い、もてなしを受けました。
ちなみに「いまじん」は、現在の「いまじん白揚」です。日販のグループ会社となっています。

さて、近藤さんからの電話の用件は、名古屋弁を標準語に翻訳して、要約すると、書店大学で、共同の仕入会社を立ち上げたので、その仕入の担当者として働かないかという話でした。
「え!」
僕は、まさかの仕事のオファーに胸が熱くなり、電話口で何度も頭を下げ、「ありがとうございます。ありがとうございます」と言って、涙が止まりませんでした。
近藤さんは、僕の勝海舟先生になったのです。

坂本龍馬が勝海舟の弟子となり、姉の乙女へ送った手紙を引用します。

此頃ハ天下無二の軍学者勝麟太郎という大先生に門人となり、ことの外かわいがられ候て、先(まず)きやく(客)ぶんのようなものになり申候。ちかきうちにハ 大坂より十里あまりの地二て、兵庫という所二て、おゝきに海軍ををしへ候所をこしらへ、又四十間、五十間もある船をこしらへ、でしども二も四五百人も諸方よりあつまり候事、私初(ママ)栄太郎(高松太郎)なども其海軍所に稽古学問いたし、時々船乗のけいこもいたし、けいこ船の蒸気船をもって近々のうち、土佐の方へも参り申候。その節御見(目)にかかり可申候。私の存じ付ハ、このせつ兄上にもおゝ(大)きに御どふい(同意)なされ、それわおもしろい、やれやれと御もふし(申)のつがふ(都合)二て候あいだ、いぜんももふし候とふり軍サでもはじまり候時ハ 夫までの命。ことし命あれバ私四十歳になり候を、むかしいいし事を御引合なされたまえへ。すこしエヘン 二かおしてひそかにおり申候。達人の見るまなこはおそろしきものとや、つれづれ二もこれあり。猶エヘンエヘン、かしこ。五月十七日 龍馬 乙女姉御本

『龍馬の手紙』講談社学術文庫より

僕も天下無二の経営者の弟子になれて、エヘンと言いたくなりました。

では、今回は、この曲で締めくくりましょう。
2003年のヒット曲、森山直太朗「さくら(独唱)」(作詞:森山直太朗・御徒町凧,作曲:森山直太朗)

どんなに苦しい時も 君は笑っているから
挫けそうになりかけても 頑張れる気がしたよ
霞みゆく景色の中に あの日の唄が聴こえる
さくら さくら 今、咲き誇る.....

つづく






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