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第10回「本を売る」ことに魅せられて


 1987年(昭和62年)も残り僅かとなりました。僕は、12月31日付で紀伊國屋書店を退職します。山上課長からは「おまえ休むなよ」と言われて、有給休暇も消化せず、大晦日まで出勤します(笑)

退職に向けて、いろいろな準備をはじめました。「法律書」と「簿記・税務」に関しては、社員の石垣美枝子さんに引き継ぎます。
「簿記・税務」の「必備図書リスト」に関しては、写真のように目次と体系図を書いた労作となっています。作成にあたって中央経済社の小林廣明さんに、大変お世話せになりました。ありがとうございました。

石垣さんとは、時間がある時は、一緒に商品補充をしました。また平台の動かし方などをレクチャーしました。
とくに不動産の平台は、新刊も多く、激戦区の売場でしたが、外してはいけない既刊の平積み本もありました。
僕も失敗したことがあるのですが、既刊でありながら、ずっとロングセラーだった本を、新刊が、たくさん入ったので、平台の位置をずらしたのです。そうしたところ、今までコンスタントに売れていた本が動きを止めたのです。もう平台から外して、棚差しにしようかと思ったのですが、待てよ!と思い、もう一度よく売れていた平台の位置に戻したところ、また以前と同じように売れ出したのです。こう言うことって、あるんだ。
それ以来、平積み商品には特に気を配るようになりました。同じジャンルだけど、隣あう商品や前後に置く商品によって、売上が変わることがわかり、どの場所が、スィートスポットであるか、わかるようになったのです。だから、新刊が入荷すると、前後左右を、これだ!という本で固めると、商品の力を120%発揮できる売場を創ることができました。まさに「本を売る」ことに魅せられた瞬間でした。

本当は、一度棚から本を全て抜き出して、石垣さんが自分で棚創りをすれば良いのですが、この時は、「草彅さんの棚を守ります!」と言われて、こちらも少し浮ついていました。

では、ここで「歴史書」の時間です(笑)
今回は、「民俗学」について。
と言っても、この時、歴史書の中で「民俗学」の占める割合は少なく、棚一段程度でした。
そんな中で、売れていた本を紹介します。
『ハレ・ケ・ケガレ―共同討議 』(青土社 1984年刊)


オビには、『日本における〈聖〉と〈俗〉
ハレ(晴)とは何か、ケ(褻)とは何か、ケガレ(穢)とは何か。
それらは日本人の生活のなかに、どのように根を張り、どのように現象するのか。
豊富な具体資料を駆使して、日本民俗学の根本テーマに挑む。』とあり、装丁を見て、これはイケると思い積んだところ、新刊のように売れました。
Amazonで見たら、結構なお値段になっていました。復刊しないかな。

では、恒例の1987年って、どんな年だったでしょうか。 

なんと言っても、このニュースですね。
1987年2月9日、政府はNTT(日本電信電話株式会社)の保有株を放出することとなりましたが、取得希望者が多かったため抽選制にしたところ、政府保有の186万株は価格119万円で売り出されることになり、上場と同時に買い注文が殺到。初値は上場翌日の10日に160万円を付ける異常値となりました。
NTT株は売り出し後、300万円以上となる高騰ぶりを見せ、運よく抽選に当たった投資家は、わずかな期間でほぼ3倍の値で売り抜けることとなり、「株は儲かる」といった認識が広がりました。
ほんと借金してでも、株と不動産を買え!という時代でしたが、清純派な僕は「よくわからない」と言って、買いませんでした(//∇//)

3月17日、アサヒビールが「スーパードライ」を発売。「世界初」「キレのある辛口ビール」とのセールスコピーで世に送り出された「スーパードライ」は、若い世代を中心に大きな支持を受け、発売と同時に爆発的な売れ行きを記録。今も売上高は業界1位ですね。

3月30日、安田火災海上保険(現:損害保険ジャパン)がゴッホの名画「ひまわり」を58億円で落札。バブル経済ニッポンの象徴的な出来事のひとつです。

4月1日、国鉄(日本国有鉄道)が分割民営化され、JR(Japan Railways)グループとなりました。これで、JT、NTTに続いて、三公社が、すべて民営化されました。

6月13日、プロ野球セ・リーグ広島東洋カープの衣笠祥雄が、当時のメジャー記録だったルー・ゲーリッグ(ヤンキース)の2130試合を抜き、2131試合連続出場の世界新記録を立てました。背番号3は、永久欠番ですね。

7月17日、俳優の石原裕次郎が亡くなりました。享年52歳。早すぎる死です。僕は銀幕のスター時代は、知りませんが、テレビドラマ『太陽にほえろ』や『大都会』『西部警察』は、忘れられません。

9月12日、マイケル・ジャクソンが「バッド・ワールド・ツアー」を東京の後楽園球場で幕開けしました。ツアーは、1989年1月27日まで16か月に渡り、15か国で123公演が行われました。この後楽園球場で熱唱している姿がカッコいいですね。

Wikipediaより

利根川進が日本初のノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
この100年前の1889年、北里柴三郎は不可能といわれた破傷風菌の純粋培養に成功し、世界を驚かせました。しかし、北里柴三郎の時代から未解決だった「抗体多様性の謎」を利根川進は、スイスのバーゼル研究所で研究。1975年にアメリカのシンポジウムにて、出席者の度肝を抜く「B細胞だけは自らの抗体遺伝子を自在に組み替えて、無数の異物に対応する無数の抗体を作ることができる」ことを証明したのです。その功績が1987年に認められたことになります。日本のノーベル賞受賞者は、1949年の湯川秀樹(物理学賞)、1965年の朝永振一郎(物理学賞)、1968年の川端康成(文学賞)、1973年の江崎玲於奈(物理学賞)、1974年の佐藤栄作(平和賞)、1981年の福井謙一(化学賞)に続く7人目の受賞。

11月21日、渋谷にLoFt(ロフト)1号店がオープン。 2号店ができるまで名称は、シブヤ西武ロフト館でした。この頃、西武百貨店池袋本店は、三越日本橋本店を抜いて売上高は業界第1位。残念なことに、38年後の今、そごう・西武は売却が決まりましたが、ロフトと無印良品(良品計画は1989年創業)は、堤清二の大きな遺産ですね。

さて、1987年の出版界は?
まずは、これでしょう。

「この味がいいね」と君が言ったから7月6日はサラダ記念日


俵万智の第一歌集『サラダ記念日』(河出書房新社)が、なぜか5月に発売!280万部の大ベストセラーとなりましたね。

ところが、もうひとつ大ベストセラーが、この年の9月に出版されました。そうです。そうなんです。

村上春樹の『ノルウェイの森』上下巻(講談社)赤と緑の表紙が多面積みで大展開されました。まるで、クリスマスのようなカラーリングに、足をとめて立読みをはじめるカップルを、いっぱい見かけました。

この頃、講談社は、売上スリップの回収をはじめました。永井祥一さんの『データが変える出版販売』(日本エディタースクール出版部1994年刊)によると、講談社が構築したDC/POSシステムでは、

書店に売上カードを送ってもらうだけでなく、いくつかの書店からは宅急便で回収しています。毎日回収に行く店が56店、その他に週に一回回収に行く店が113店あります。毎週1回スリップを回収に行く場合でも、日別に一週間分の袋を用意し、日付を入れてもらって回収します。このように得られた、店別、日別、アイテム別の三つの要素を把握できるデータが非常に大きな意味をもっているのです。
ちなみに宅急便を利用した売上カードの回収は、講談社の他、小学館(DATA・HOT・LINE=しょうたく)、集英社(イリマス)も実施しており、また出版社10社(学習研究社、河出書房新社、光文社、主婦と生活社、祥伝社、新潮社、筑摩書房、中央公論社、文藝春秋、KKロングセラーズ)による共同回収システム(レインボー・ネットワーク・フォア・ブックス)などがあります。しかしこれらも、書店でPOSレジが普及すれば、別の方法が考え出されるでしょう

POSレジが普及する前は、このように、講談社に限らず大手出版社は、売上スリップを回収して、機械(読むぞう君)に読み込ませて単品データの売上分析をはじめたのです。

『ノルウェイの森』に話を戻します。

紀伊國屋書店渋谷店の場合は、毎日スリップが回収される店舗でした。直接だったか、宅急便だっかは記憶しておりませんが、毎日であったことは確かです。
そして、『ノルウェイの森』は、データに基づき補充注文がなされ、謂わば作られたベストセラーのようでした。書店員は、入ってきた追加注文を、ただ並べるだけが仕事になってました。これは批判ではなく、むしろ喜ぶべき進歩だったと今になって強く思います。(ただ並べれば売れる本に頭を使うのではなく、そうではない本に力を入れたらいいのです)
この作品は、村上春樹の代名詞となり、売れに売れ続け、単行本、文庫を合わせると国内累計発行部数は1000万部を突破してるとのこと。ちなみにタイトルは、村上春樹の奥様の発案。

ビジネス書では、この頃、「三ピンニろう」の本が売れると言われていました。
すなわち、三ピンとは、大前研一、堺屋太一、竹村健一であり、ニろうとは、城山三郎、長谷川慶太郎のことでした。

この年も、城山三郎が翻訳したキングスレイ・ウォード『ビジネスマンの父より息子への30通の手紙』(新潮社1987年刊)がベストセラーになり、堺屋太一の『千日の変革 日本が変わる社会が変わる』(PHP研究所1987年刊)長谷川慶太郎の『世界が動く日本が変わる』(PHP研究所 1987年刊)大前研一の『大前研一の日本企業生き残り戦略』(プレジデント社 1987年刊)竹村健一の『日本人の生活はこう変わる "聖域"農業を見直す』(太陽企画出版 1987年刊)がベストの上位にランクされました。

またSONYの創業者のひとり、盛田昭夫の『MADE IN JAPAN』(朝日新聞社1987年刊)は大ベストセラーとなりました。
まさにバブル絶頂期であり、ビジネス書が飛ぶように売れる時代でした。

続いて、映画の話。僕が観た映画の中から独断と偏見のベスト3を発表します。

まずは、第3位。監督:ウィラード・ハイク、制作総指揮:ジョージ・ルーカス、主演:リー・トンプソンの『ハワード・ザ・ダック/暗黒魔王の陰謀』マーベル・コミックのキャラクターをなぜルーカスが?と思ったらルーカスフィルムが所有する制作会社I.L.M.(インダストリアル・ライト&マジック)の新しい技術を用いた映画だったようですね。映画は東急文化会館で観ました。看板の前で彼女が、アヒルの口をして撮った写真が残ってます(•ө•)

続いて、第2位は、監督:トニー・スコット、主演:トム・クルーズの『トップガン』です。
全米興行成績1位を記録して、トム・クルーズは、一躍スターダムへと駆け上がりました。36年後に続編『トップガン マーヴェリック』が公開されました。


そして、第1位は!
アカデミー賞4部門受賞。巨匠オリバー・ストーンがベトナム戦争の真実をリアリティに描いた『プラトーン』です。

ベトナム戦争は、1954年から20年以上続いた戦争。フランシス・コッポラや他にもベトナム戦争の映画は、ありますが、この作品が一番だと思います。
オリバー・ストーン自身がベトナム戦争の帰還兵だったんですね。

オリバー・ストーンは、その後1989年にトム・クルーズ主演で、再びベトナム戦争を扱った『7月4日に生まれて』で、アカデミー賞の監督賞を受賞しています。

最後は、音楽の話。
この年は、瀬川瑛子の『命くれない』(作詞:吉岡治 作曲:北原じゅん)がオリコンシングルスチャート年間1位となり、デビュー20年目にして大ブレイク!
また吉幾三が、コミックソングから本格的な演歌路線へ転向し、大ヒットした『雪國』(作詞、作曲:吉幾三)をリリースするなど演歌歌手の活躍が目立ちました。

その中で、中森明菜は『TANGO NOIR』(作詞:冬杜花代子、作曲:都志見隆)『難破船』(作詞、作曲:加藤登紀子 )『BLONDE』(作詞:麻生圭子 作曲:Biddu-Winston Sela)の3曲が、この年のヒットチャートにあがっていました。

それと、ローラースケートパフォーマンスで一世を風靡した「光GENJI」のデビュー曲『STAR LIGHT』(作詞:飛鳥涼 作曲:飛鳥涼・CHAGE)も、この年でした。

德永英明のデビュー4枚目のシングル『輝きながら...』(作詞:大津あきら 作曲:鈴木キサブロー)が、富士フィルムのCMソングとなり、はじめて「ザ・ベストテン」(TBSテレビ)や「歌のトップテン」(日本テレビ)にランクインしました。デビュー曲『Rain Blue』(1986年、作詞:大木誠 作曲:德永英明)から売れてると思ってました。


大晦日の最終出勤日、僕は感慨に耽って居ました。1984年の9月から1987年12月までの3年3ヶ月を、この店で働かせてもらいました。T先輩に憧れて、背中を追いかけるように仕事を覚えたことを山﨑さんに言うと、山崎さんは、僕にこう言ったのです。
「草彅くんは、Tさんを超えたよ」
えっ!と思いながらも、何よりも、嬉しい言葉でした。そう僕の3年3ヶ月は、山﨑さんとも過ごした日々でした。一番仕事で刺激を受けたのも山﨑さんの本を売る姿勢だったと思うのです。山﨑美紀子さん 本当にありがとうございました。

閉店時間まで働き、みなさんにお別れの挨拶をして、最後に棚に別れを告げました。数人で近くの居酒屋で、送別会。ここでも本の話は途切れませんでした。

いつの間にか、居酒屋のテレビから除夜の鐘が鳴り、この渋谷という街で、1988年(昭和63年)を迎えました。
程なく、この街とも、お別れです。

ではエンディング曲は、桑田佳祐の『遠い街角(THE WANDERIN' STREET)』(作詞、作曲:桑田佳祐 1988年)を、お聴きください。

今でも忘れられぬ日々
甘くて しびれるような恋もした
別れた駅に降り立つたび
振り返る街角.....



この27年後、東急プラザ 渋谷 は、再開発のため2015年3月22日に閉館。紀伊國屋書店渋谷店は、49年の歴史に幕を閉じたのです。
然れども、紀伊國屋書店渋谷店は、僕の追憶の中に今も生きています。

注)紀伊國屋書店西武渋谷店は営業中です。


『「本を売る」ことに魅せられて』「紀伊國屋書店」篇

ー了ー







【ご出演(敬称略)】
 石井 伸介
 石垣 美枝子
 石野 誠一
 臼杵 悦子
 内田 眞吾
 浴野 英生
 大場 章正
 岡橋 渉
 川畑幸巳
 上村 卓夫
 木村 郁子
 草彅 麻子
 草彅 澄子
 久禮 亮太
 郷 清
 郷 美佐緒
 小嶋 京子
 齊藤 龍男
 島田 純一
 庄田達哉
 白川 浩介
 鈴木 登美男
 寿南 孝士
 高坂 浩一
 田口 久美子
 武市 一幸
 田辺 清彦
 都祭 毅
 西根 徹
 西山 恒久
 野中 克宏
 野本 晃治
 深水 清
 藤原 良雄
 松木 正枝
 松原 治
 道端 成雄
 山上 忠雄
 山﨑 美紀子
 山埜井 啓ニ
 湯本 正哉
 横井 真木雄

【特別出演】
   ウルトラマンタロウ
 深ちゃんマン

【エンディングテーマ曲】
 薬師丸ひろ子「メイン・テーマ」(作詞:松本隆 作曲:南佳孝)
 杉山清貴&オメガトライブ「ふたりの夏物語」(作詞:康珍化  作曲:林哲司)
 中森明菜「飾りじゃないのよ涙は」(作詞、作曲:井上陽水
 薬師丸ひろ子「Woman"Wの悲劇"より」(作詞:松本隆,作曲:呉田軽穂)
 チェカーズ「Song for U.S.A」(作詞:売野雅勇 作曲:芹澤廣明)
 Chuck Berry 「Johnny B. Goode」(作詞、作曲:Chuck Berry )
 BOOWY『MARIONETTE-マリオネット-』(作詞:氷室京介 作曲:布袋寅泰)
 薬師丸ひろ子「セーラー服と機関銃」(作詞:来生えつこ. 作曲:来生たか)
 杉山清貴「最後のHoly Night」(作詞:売野雅勇、作曲:杉山清貴)
 桑田佳祐「遠い街角(THE WANDERIN' STREET)」(作詞、作曲:桑田佳祐)

【挿入曲】
 ジョー山中「『人間の証明』のテーマ曲」(作詞:西條八十、角川春樹、ジョー山中 作曲:大野雄二)
 町田義人「戦士の休息」(作詞:山川啓介、作曲:大野雄二)
 岩田光央「ウルトラマンタロウ」(作詞:阿久悠、作曲:川口真)

【Special Thanks】
 杉江由次
 田中裕士
 古幡瑞穂

【監督・脚本・主演】
 草彅主税





おまけ
歴史沼にはまりたい方だけどうぞ(笑)





卒業論文『源義経と平泉』完成しました。



源義経と兄・頼朝との初対面は、『吾妻鏡』治承四年十月二十一日の条にあります。

まずは、原文(漢文)をお楽しみください。

今日、弱冠一人、彳御旅館之砌、稱可奉鎌倉殿之由、實平、宗遠、義實等恠之不能執啓、移尅之處、武衛自令事聞此事給、思年齢之程、奥州九郎歟、早可有御對面者、仍實平請彼人、果而義經主、卽参-進御前、互談往時、催懐舊之涙、就中、白河院御宇、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣義家、於奥州、与将軍三郎武衡、同四郎家衡等遂合戦、于時左兵衛尉義光候京都、傳-聞此事、辞朝廷警衛之當官、解-置弦袋於殿上、潜下-向奥州、加于兄軍陣之後、忽被亡敵訖、今来臨尤協彼佳例之由、被感仰云々。

   吉川弘文館『国史体系  吾妻鏡』より

続いて、読み下し文を、お読みください。

今日、弱冠一人、御旅館の砌(みぎり)に彳(たたず)み、鎌倉殿に謁したてまつるべきの由を稱す。(土肥)實平・(土屋)宗遠・(岡崎)義實等これを怪しみ、執啓に能はず尅(とき)を移すのところ、武衛(頼朝)みづからこの事を聞かしめたまふ。年齢の程を思ふに、奥州の九郎か。早く後對面あるべしてへれば、よつて實平、かの人を請ず。果して義經主なり。すなはち御前に参進して、互に往時を談じ、懐舊の涙を催す。就中(なかんづく)に白河院の御宇、永保三年九月、曾祖陸奥守源朝臣義家 奥州において、将軍(清原)三郎武衡・同四郎家衡等と合戦を遂ぐ。時に左兵衛尉(源)義光京都に候ず。この事を傳へ聞きて、朝廷警衛の當官を辭し、弦袋を殿上に解き置きて、ひそかに奥州に下向し、兄の軍陣に加はるの後、たちまちに敵を亡ぼされをはんぬ。今の来臨もつともかの佳例に協(かな)ふの由、感じ仰せらると云々。

草彅主税『源義経と平泉』より


さらに、現代語訳すると以下のようになります。

今日、若者が一人、御宿所の辺りにたたずんでいた。鎌倉殿(源頼朝)にお会いしたいという。(土肥)実平・(土屋)宗遠・(岡崎)義実たちはこの若者を怪しみ、取り次ぎせずにそのまま時が移っていたところ、武衛(頼朝)自らがこの事をお聞きになり、「年齢を考えるに、奥州の九郎(源義経)ではないか、早く対面しよう。」といった。そこで実平が取り次ぐと、果たしてその人は義経主であった。すぐに御前に進み、互いに昔を語り合い、懐かしさに涙を流した。白川天皇の御代の永保三年九月、曽祖父の陸奥守源朝臣義家が奥州で将軍(清原)三郎武衡・同(清原)四郎家衡らと合戦を交えた(後三年の役)時に、左兵衛尉(源)義光は京都で仕えていたものの、この事を伝え聞き、当時ついていた朝廷警護の官職を辞し弦袋を解いて殿上に置き、密かに奥州へ下向して、兄の軍陣に加わり、たちまちのうちに敵を打ち破ってしまった。今回やってきたのはその吉例に叶うものであると、(頼朝は)感激されて仰ったという。

五味文彦・本郷和人[編]『現代語訳 吾妻鏡 ①頼朝の挙兵』吉川弘文館2007年刊より


では『源義経と平泉』の序章を、お楽しみください。

 源九郎義経という人物は、日本史上極めて特異な人物である。義経に関する確かな文献史料は少ないのに、義経に纏わる伝説や逸話の数は非常に多い。しかも、これらの義経伝説が、恰も史実であるが如く罷り通っているのは、誠に不思議である。
 史実による義経伝の研究は、これらの伝説を用いてはならない。義経に関する確かな文献史料は何かと言えば、まず義経自身が書いた書状があるが、実際のところ、そのような古文書は、極僅かであり、しかも相互の関連もなく、義経の実在を証明するにすぎない。

 そこで、次にあげられるのは、義経の史実を記録した同時代人の日記であり、その代表的なものが、九条兼実の『玉葉』である。また鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、義経に関する記述が多くみられる。義経が確かな歴史に登場するのも、この『吾妻鏡』が最初であるのだ。平家が全盛を極めていた時代、奥州平泉を離れ、兄の軍陣にかけつけるところから始まり、平泉で自害するまでの九ヶ年間が『吾妻鏡』には記されている。
それ故に、正史による義経の事績は、平泉に始まり、そして平泉に終わるのである。さらに、その悲劇的な末路をつくりあげたのは、兄である頼朝との不和によってである。
 この兄との不和が、何故起こったのか、私には、長い間疑問であった。平家を滅ぼし、鎌倉幕府の基礎を固めた立役者は、義経をおいて、他にはいないのだ。
 そこで、義経が何故、兄と争うようになったか、その点に留意しながら、先の史料を用い、義経伝をくりひろげるとする。

目次
第一章 東国の覇権
   1  平泉から歴史の舞台へ
   2  平氏政権下の鎌倉と平泉
第二章 兄弟の確執
   1  京都の義経と暗君後白河
   2  影時讒言の虚構と義経の都落ち
第三章 義経の最後と平泉の滅亡
   1  義経の逃亡と北方の王者の死
   2  頼朝の宿意と平泉


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