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日本の女尊男卑は極限に達しているが、優遇と言えないほど優遇が浸透していて誰も発言できないからネットで発言されるの巻。

チラシの裏形式で思ったことを書き殴りました。

「事実陳列罪」という不可思議なネットミームに、不都合な真実を隠す女性の特性が現れる

女性にとって真実は重要ではない。なぜなら真実とは不変ではないからだ。常に変化することを求め、常に変身願望があり、努力するリスクと責任を回避する生物であるがゆえに、不変とされる事実に対する重みもないし、それを受け止めることもない。そして受け止めなくとも良い社会(女性だけが)
となってしまった令和日本社会。男性だけが、真実を直視し、ホモソーシャルな関係の中で、「事実直視刑」の中で、社会的成長を(変身ではない)要求されている。

常に反対の発言をするという女性の特性。それを肯定すると社会がとんでもないことになるのだが、何故か男性の武器(暴力)は禁止されているの矛盾

思っていることや事実と反対のことを何の罪悪感も抱くことはなく(ここは事実真実を重視する男性との違い)発言する女性の武器のみが合法となり、男性の武器である暴力は違法となるディストピア。

弱者という権利は、令和日本社会では圧倒的強者の言い換えに他ならない

女子供、老人、障碍者。弱者であると宣言することを社会的に(世間的に)許された者どもは、それをもって日本社会においては強者となる。なぜか。海外ではそのまま公的機関の介入むなしく現実生活で容赦なく搾取され弱者であるが、日本社会では公的機関(主に強制力を持つ、司法・行政)の介入により、潔癖で息苦しい横並びの監視社会で、強者とされる健常者よりも優遇されてしまっている。健常者とは弱者の意味であり、何ら司法優遇、行政優遇、税制優遇を受けないという意味で弱者である。単に生まれの違いにより差別を受けないとされる国において、単に早く生まれて死を待つだけの社会的無産様に、国の未来を担う莫大な若者・青年・中年の金が注ぎ込まれ、それらは墓場には持ち込むことはできずに国庫の養分となる。誰も忠誠心など持たない衰退国家のお手本として世界が注目しているのは、弱者を強者にして、本来強者である健常者、GDP向上に直結する人々を優遇せず、責任逃れが大好きな女性を優遇した、社会全体が責任の所在や主体性を奪う軍隊教育をやめられない、戦前からの亡霊を振り払えない限界主体性の国ならではの悲劇が垣間見えるからである。ほほえみの国があるなら、ここはともぐいの国である。誰も幸せにならない同士討ち、相互監視、足の引っ張り合いをやって、一生に一度の人生を、令和にもなって、会社やら組織やら企業に捧げて終わる。まさに一億総女社会である。自助努力を放棄した醜悪な後ろ向きの勝利である。

ただし、悪い人もたくさんいれば、良い人もたくさんいる。性別も含め、個々人の属性は平均や中央値を示す程度にすぎない

ただし、このちっぽけな島国といえども、心底独立心があったり、善人であることに何ら裏の意図がなかったり、逆に24時間他人を欺き陥れることを本性とする人間がいる。富裕層も結構いるが、生活保護も増加している。一生に一度の人生を、与えられたカードで生きることは逃れられないが、人為的な共産主義は、正しい配分があってこそのものである。令和社会で「生きやすい」のは圧倒的に弱者である(がゆえに強者)なのだが、もう十分表向きの弱者は強者になったのだから、今度は本来の弱者(男性、健常者、正社員、家族あり、資産ありなど)を強者にする時が来ているように思う。それは優勢思想だナチズムがというが、女性や老〇を優遇しすぎるのは、まさしくキリスト教道徳、ニーチェのいうルサンチマンにすぎない。弱者は本当に弱者か?の視点が抜け落ちているのは、お上が与えた弱者から抜け出さない抜け出せない、この国社会の思考停止が招いた前例主義の悲劇である。「弱者男性」(本来強者であるはずの男性が弱者であるというパラドクス)という言葉の令和日本社会での活躍は、まさにここに結実する。

弱者男性とは、本当の弱者だ。なぜなら弱者なのに救済されないから。

日本社会では、弱者は健康保険制度や女性専用車両やレディースデーや判例で優遇される。しかし、男性は強者という定義(これが誤り)なのに、弱者なのであるしそれは紛れもない事実である(ファッション弱者ではない)。もちろん診断書をゲットして障碍者としてデビューするとか、生活保護を受給するとか、そういう派生形として生きていくなら優遇はあり強者になれるかもしれない。しかし自らを健常者、男性として押し通して(正直に)生きるならば、それはもう弱者である。優遇はないからだ。
特に弱者男性とは、恋愛弱者として定義されることも多い。恋愛は圧倒的に女性優遇のゲームであるから、男性はすでに弱者なのであるが、それに輪をかけて弱者になるのは、弱者ながらも恋愛ゲームに付き合い異性を獲得する男性の中でも、ほとんど(まったく)異性を獲得できない男性が存在するからである。そしてそれは、公的救済がない。東京都がマッチングアプリを運用するらしいが、他社のマッチングアプリよりは男性の優遇がある(男女の利用料金の差がない?)けれども、逆にそれゆえに、異性の獲得は難しくなる可能性があり、もちろん下駄はない。女性はただ女性であるというだけで、令和日本においては、圧倒的なコスパを得ているからだ。

女性であるというだけで、社会的責任は(相対的に)免除され、人生イージーモードと揶揄される社会は、それでも弱者で健全な社会なのか

女性の大好きな逆言葉だ。もはや圧倒的に強者である女性は、強者であることを隠して責任逃れをするために弱者と唱え続けることで、男性よりも「気楽に」生きられる社会を保ち続けている。弱者男性と対比させて定義する強者男性は、強者になるため(モテるため)に女性が弱者だというストーリーを否定しない。女性が弱者であり、選ばれる性であることを肯定し続ける。弱者男性だけがこの矛盾に気づいているしそれを表出する(ここが強者男性との差異)。

いい加減あほらしくなるよ。女であるだけでロクに仕事も覚えず、仕事のクオリティも低い、だべってるばかりで動きも遅い、おまけに定時ですぐに帰りたがり、職場全体の都合などお構いなし、それでいて給料はちゃっかり他の奴と同じだけもらう。俺もま〇こがついていれば人生イージーモードだったのにな。こんな令和日本社会にア〇がした。おわり。

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