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令和日本女尊男卑感の根底にある感情

飲み会でのキャピキャピした自由な振る舞いの若年女性強者たちから

自由奔放でわがままに、好き勝手にぺちゃくちゃ駄弁り、それぞれの気合の入ったここぞとのばかりのファッションを披露する。その華やかしさ、きらびやかさの全てが、男性には許され得ないものであることを悟り不平等を感じうるのである。日本男性には好き勝手なファッションやヘアスタイル、発言や振る舞いは許されえない。それは、社会的強者としての仮面を降りられない故の弱者であることの証明である。もはや日本男性は日本女性の優遇と優越の前に完全敗北している。それを受忍できるのは性欲故のものであって、不平等による嫉妬や正義感、公平性を求める倫理観が備わっていれば、必然的にそれは性欲というヴェールを超えて女尊男卑社会日本への反論の原動力となる。

日本女性が日本男性を必要とするより、日本男性が女性を必要とする構造

つまり令和日本で異性が行動原理を規制する度合いが、女性よりも男性のが高い。
各自自由な存在として誕生した性別であるが、自己本位の欲求の規制には差がある。

女性の自由:可愛さ(美)の追求。自己愛の追求。付随する権力の追求。
男性の自由:性欲の追求。力・権力・財・地位・名誉の追求。

女性の自由は自分の価値の向上を目指し発散するもので、公序良俗に反するヌーディズム以外に社会からの規制はない。スーツ姿も制服も髪型も女性のが自由だ。
男性の自由は、性欲を発散する行動を追求するもので、今やあらゆる法規制の包囲網が敷かれ、少子化を加速し、男性同士の搾取の開始点・対象となり(美人局・正義マン)、過剰な権力は分散され、財は重税を課せられ、地位や名誉は常に限られた牌であり、女子の可愛さ(美)はさまざまなバリエーションと需要が常に担保されているが、地位や名誉や大金持ちは常にパイが少ない。つまり自由が少ない。もちろん服装や言動の自由、就労の自由、生活の自由、人生の自由が相対的に少ない。つまり終着点が自己に向かうか、他者に向かうかにより人生難易度が異なる。

日本男性がより自由に生きられないことに苛ついているのか

そうかもしれない。自分が自由に生きようとしても、男性であるが故に制限されることが多すぎるような直観がしている。
もっと奇抜な言動をして、奇抜な服装で、それでいて社会的に非難されずポリ公にも目をつけられずま○こついてるだけであらゆることが許される日本社会独自の自由を最大限享受するにはTSしかないのかもしれない。VRの世界では、昔ながらのネカマ一択である。もっというと俺はそんな自由を味わえずにずっと今日この日まで日本社会で奮闘してきたのかもしれない。
俺自身が令和女尊男卑社会の中で、まだかろうじて男性の自由が担保されている領域に身を潜めて、諦念しつつ残された秘境でワルツを踊るのだ。

涼しくなったら、ゲーミングPCを買おう。

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